法話へ
求道者

3月1日

はい、長念寺テレホン法話です。
 前々回、山伏弁念さんのお話をしました。弁念さんが、親鸞聖人を殺そうと聖人の庵室を尋ね、
聖人と対面したとたん害心を翻して、聖人に帰依されたという話です。
明法房となられた弁念さん、山伏時代に感じていた積年の思いを親鸞聖人にお話されたに
違いありません。 悩み苦しむ人びとを救うため山伏になった事。弁念さんの霊験を信じ集まって
くる人びとを得たよろこび。それとともに、自分が行っている加持祈祷が、本当に人びとの救いに
なっているかとの疑問。しかし、その行為が生活の糧となったとき、疑問を打ち消していた自分が
あったこと。聖人の出現により信者が減り始め、自分の生活が脅かされる不安を懐いたこと。そし
て、聖人への敵意。 ただし、弁念さんは、仏道を歩む求道者でありました。
 密かに、聖人の説く教えがどのようなものなのか気にしていたこと。そして、むしろ親鸞聖人の
み教えが、弁念さんが求めていたものに近いのではないかとの思いが生じ始めたこと。等々。
 そして、親鸞聖人は、ご自身の佐貫での出来事とその時の思いを話されたのではないでしょう
か。前回ご紹介した、佐貫での三部経千部読誦のお話です。ご自身も、悩み苦しむ人びとを目の
前にした時、同じような過ちをしてしまったことがあることを話され、本願他力の真実の救いを説く
身でありながら、自力のはからい心に振り回されていることを話されたのではないかと思います。
 聖人と弁念さんは、僧侶にとって、不幸にみまわれて悩み苦しむ人びとの訴えに、我が霊験を
誇張して対処することが、いかにたやすいことであるかを、そして、そのことがその場しのぎの行為
に過ぎず、悩み苦しむ人びとの真の解決にはなり得ないどころか、迷いを増幅させるだけだという
ことを語り合われたことでしょう。さらに、その行為は、仏法を我が手柄にして、お経の意味を無視
して我が功徳として他に施そうとすることであり、まさに、己が無明から発する行為でしかなく、自力
の執心そのものであることを確認し合われたのではないかと思います。
 そして、真実の救いの道は、阿弥陀仏の本願他力のお念仏しかないことを確認したに違いありま
せん。まさに、阿弥陀さまの前では、仏法を聞く者も説く者も、みなが同じ立場の「お同行」であるこ
とを確認し合われたことでありましょう。
 次の法話テープの交換は3月16日です。