心を弘誓の仏地に樹て    2008.1.16〜
      (グゼイ)の(ブッチ)

 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、教行信証の後序に次のような言葉を述べておられます。
 「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」と。
  この短い言葉の中に、聖人の深い思いが込められています。その豊かな
  思い、その無限とも言える広がりに、その言葉を聞く私たちも、つい
  うっとりとしてしまうような響きがあります。
 「心を弘誓の仏地に樹て」とは、「私の心は、阿弥陀さまのお浄土に、
  しっかりと根付いています」ということです。親鸞聖人はここで
 「仏地にたて」の「たてる」という言葉の文字を、わざわざ樹木の「樹」
  という字を用いておられます。そのイメージは、樹木が大地にしっかり
  と根付いている情景であります。
 「念を難思の法海に流す」という言葉には、私の思いが、阿弥陀さまの
  救いの海のなかに大きく広がっていく無限大の安心感があります。
 信心に生きるということは、何ものにも動じない大きな安心感であると
  いうことが、よく分かります。
 続いて親鸞聖人は、「深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を
  仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」と述べられています。
  阿弥陀さまという仏さまは、私たち人間を迷いをもったまま掬い取って
  捨てることをしないと誓われた仏さまです。私が阿弥陀さまに近づく
  努力をしなくても、阿弥陀さまの方から、私を包み込んでくださってい
  る。聖人は阿弥陀さまの深いお慈悲をよろこぶとともに、そのことを知
  り得るために教え導いてくださった先生方の厚いご恩に、よろこび感謝
  しておられます。
 私たちは、些細なことに一喜一憂し、迷い悩んでしまうことが常であり
  ます。ラジオを聞いておりましたら、初詣の御神籤に一喜一憂している
  声が流れていました。どうでもよいことにとらわれてしまうのが現実で
  す。しかし、そんな私の心が、阿弥陀さまのひとり働きにより、阿弥陀
  さまのお浄土にいつの間にか根づかせていただき、悩み自体が、阿弥陀
  さまの救いの海に洗い流されていくことに気づく時、ああ、浄土真宗で
  よかったなあ。他力の教えはありがたいなあと思います。
 「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」
 親鸞聖人のこの言葉、心のすみに常にとどめておきたい言葉であります。

 次の法話テープの交換は2月1日です。
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