法話へ
 はい、長念寺テレホン法話です。
  親鸞聖人が、越後から関東への旅の途中、佐貫というところで、飢饉などがあったのでしょうか、人々が苦しんでいる姿を見るに見かねて三部経の千部読誦を思い立たれたことがありました。 しかし、聖人はすぐにご自身の過ちに気づかれます。恵信尼さま
のお手紙によりますと、このとき、聖人は、本願他力のみ教えを信じ伝えることが、仏恩に報いることと信じながら、自力のとらわれ心がまだ残っていたことを反省されていたとのことです。 ここで、親鸞聖人は、善導大師が著された『往生礼讃』の「自信教人信」という言葉を引用されています。「自信教人信」とは、「自ら信じ、人を教えて信ぜしむ」ということです。
聖人は、この言葉を引用しながら、自分は「まだまだだなあ」と反省されているのです。
 そして、私たちは、この事実を恵信尼さまのお手紙を通して知ることにより、ますます、親鸞聖人が「自信教人信」の人であったことを知らされるのです。おそらく、恵信尼さまが、お手紙で末娘の覚信尼さまに伝えたかったことは、そのことであったのだろうと思います。 自ら信じた本願他力のみ教えを、人々に伝えていくことは、まさに報恩感謝の行為であります。私たちにとりまして、感動したこと、または納得したことを、人に伝えることは難しいことではありません。また影響力も大きなものがあります。
 私がそれを強く感じたのは、あるご門徒のこの言葉です。
 「住職がよく言う、清め塩のこと。よく分かったよ。ついこの間、無二の親友のお葬式があったのだが、家に帰った時、とても塩をまくような気になれなかったよ」ご門徒のこの言葉は、周囲の人々に強い影響力がありました。
私が何度も繰り返し話しても、なかなか実現できなかったことが、この言葉ひとつで一気にそこにいた多くの人々の共感を得てしまっ たのです。 しかし反面、「自信教人信」の実践は、とても難しいものがあります。私たちの感動はなかなか持続しません。また、伝えようという意志が強く働くと、理屈っぽくなってしまうなどして、かえって共感が得られなくなってしまいます。 持続できない私、また勘違いなどまちがいを犯しやすい私、み教えを繰り返し聞きながら、「自信教人信」を実践させていただいているのだなあと思います。親鸞聖人が、「まだまだだなあ」と反省されているそのお姿に強く共感するところであります。
 次の法話テープの交換は6月16日です。
自信教人信(じしんきょうにんしん)

6月1日〜