はい、長念寺テレホン法話です。
 長念寺では、6月18、19日の二日間、越後の親鸞聖人ご旧跡に団体参拝して
 参りました。 高速道路をひた走りおよそ4時間で日本海に面した上越市。
 国府別院、五智国分寺、居多が浜。親鸞聖人が承元の法難により流罪となられ、
 7年間滞在されたご旧跡を参拝しました。 承元の法難は、いまから801年前
 の旧暦2月のこと。親鸞聖人が居多が浜に到着されたのは春まだ遠い真冬のこと
 であったと想像されます。 冬の日本海はさぞかし荒れていたことと思います。
 親鸞聖人は、法然教団への弾圧に対する憤りを、どんよりとした暗い空に呼応する
 ように逆立つ浪に投影させ、平安を許さない自然の脅威を肌身に受け、そこに、
 ひとの心を深く見つめられて行かれたのだと思います。

  一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄
 の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(『教行信証』信巻)

 親鸞聖人は私たち衆生の姿を、「一切の群生海」と海に譬えておられます。また、
 『一念多念証文』の、「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、
 欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
 臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへに
 あらはれたり。

 とのお言葉には、そのリズムに日本海の波のうねりが聞こえてくるような気が
 いたします。 私たちが訪れました6月18日の日本海は大変穏やかでした。
 穏やかな海をながめていますと心が落ち着きます。
 『正信偈』の中に、「如衆水入海一味」という一節が有ります。阿弥陀さまのお救
 いは、凡夫が等しく救われていく道であり、それは海があらゆる川の水が流れ込ん
 だとしてもひとつの味になるように、おさめ取って捨てることがないとの教えです。
 親鸞聖人は、ここでは、阿弥陀さまの功徳を「海」に譬えられているのです。
 親鸞聖人の越後での7年間、赦免されるまでの5年間は罪人の立場で有りました。
 しかし、それは誹謗中傷による冤罪であり、聖人にとって償いに値する日々では
 ありませんでした。しかし、京都とは異なり厳しい自然が聖人を苦しめたことと
 思います。当時は、人々が大きな権力によって翻弄されることが日常茶飯事の
 時代です。非公式な都からの情報も当然あったのだと思います。越後には、
 陰に陽に聖人の支えとなった人々が、恵信尼をはじめとして大勢おられたのだ
 ということが想像されます。
 親鸞聖人は、海からいろいろなヒントを得て、海にちなんだ表現を種々されていま
 す。その豊かな発想は越後という土地から生れてきたものではないかと確信した
 旅行でありました。
 次の法話テープの交換は7月16日です。
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7月1日より放送

居多が浜