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平成20年9月16日〜
戦争の記憶の風化 続
はい、長念寺テレホン法話です。
 前回、敗戦から63年を経て、戦争の記憶が薄らいできたことをお話しいたしました。
 長念寺では、8月6日8時15分と9日11時2分に梵鐘を撞き一分間の黙祷をしています。数年前までは、広島・長崎から遠く離れた私の町でもサイレンやチャペルの鐘など聞こえてきたものですが、最近は追悼の意志を表わす音はまず聞こえてきません。
 8月15日、例年の如く靖国神社へは、小泉元首相・安倍前首相をはじめとして多くの国会議員が参拝しました。野田聖子消費者行政担当相など戦後生まれの国会議員も含まれています。戦没者追悼の意志については否定はしません。が、それとともに靖国神社が唯一の国による追悼施設だとの示威行為に彼らが加担していることは否定しようがありません。
 戦争の記憶の風化が進むことにより、靖国神社が過去の存在となり意味を失っていくとの考え方は成り立ちません。靖国参拝に拘泥した小泉元首相、「美しい国日本」の安倍前首相、当時、靖国神社は久しぶりに国民の大きな注目を浴びました。ヤスクニの歴史を学ぶよい機会にもなりました。しかし、私たちの期待に反し、結果としては小泉路線を国民は否定しませんでした。むしろ人気を得た形となってしまいました。
 先の戦争で、国家神道という宗教が果たした役割は重大なものがありました。靖国神社に対する私的参拝か公的参拝かと論議は、靖国神社が国が関与している唯一の戦没者追悼施設との前提から生ずるものです。現在の靖国神社が一宗教法人として独自の宗教活動を進めていくことになんら異論をもつものではありません。ただし、軍の施設であった戦前からそのまま継続しているとする国立の靖国神社との幻想を否定しなければなりません。それには国が、特定の宗教によらずすべての人がわだかまりなく追悼できる新たな施設をつくることにより、靖国神社への国の関与をきっぱりと否定し、政教分離・信教の自由を現実のものとすることが喫緊の課題であると考えます。
 また更に、新たな追悼施設が第二のヤスクニにならないようにしなければなりません。国の大儀のために「名誉の戦死」と意味づけをしなければならない死者を生み出す政治を許してはなりません。
 今までイデオロギーとしてのヤスクニ思想の復活を許さなかった要因は、戦争の記憶そのものであります。遺族の悲しみやつらさ、せつなさが、戦争を美化する思想の台頭を許さなかったのです。いくら英霊と美化されたとしても、亡くなったひとのいのちは戻って来ないという事実が眼前にあったからです。
 戦争の記憶の風化が、国を戦争へと導く力の台頭を許すことになりはしないか、関心を持ち続けなければなりません。
 次の法話テープの交換は、10月1日です。