法話へ

平成20年10月1日より

平凡でなんでもないこと
はい、長念寺テレホン法話です。
 NHKの朝のドラマ「瞳」が終わりました。主人公の瞳を中心にして養育家庭の日常を軸に、
 それを取り巻くいくつかの家族の愛憎ドラマが展開する。重くなりそうなテーマを、ダンス
 という調味料をふんだんに、朝という時間に相応しい、ほのぼのとしたとても爽やかな
 ドラマでありました。それは最終回、近藤正臣さんが扮する児童相談センターの若山さんの
 「平凡でなんでもないことがどんなに大事かってことがよおく分かりますね」という言葉に
 象徴されていました。とても素敵な言葉でした。
 わたくしたちの社会は、あらゆる刺激に囲まれています。ニュースでは、毎日のように悲惨な
 事件が報じられ、テレビドラマやワイドショーでは、視聴者をとり逃がさないために絶えず
 奇をてらった映像や言葉など、刺激にあふれています。現代人は、ひとりひとりが、いつの間
 にか感動しにくい環境をみずから作り上げているといってもよいのではないでしょうか。
 感動しにくいということは、独りよがりになりやすいということです。
 仏教的生活とは、個々の感受性を磨く生活習慣をいいます。感受性が磨かれてくるといった
 ほうが良いかもしれません。お経に説かれています阿弥陀さまという仏さま、とことんまで
 わたくしたち人間のことを心配し修行をされ仏さまになられているのです。聞けば聞くほどに、
 読めば読むほどに、わたくしのために仏さまが働き続けていると思わざるを得ません。
 「ありがたい」「おかげさま」「お恥ずかしい」「もったいない」ということば、私たちの
 先輩である念仏者たちは頻繁に使っています。日常生活のなかで、感動のことばを発している
 のです。あたりまえと通りすぎてしまうような事柄でも、大きな働きを感じ取っていくことが
 できる。まさに他力に生きるということはそういうことなのではないでしょうか。
 お釈迦さまの呼び名に「大医王」というのがあります。医者の中の大王、もっとも優れた
 お医者さんという意味です。心の悩みを解消する、本当の意味での「いやし」を実践する方
 だったのです。心の悩みを根源から解消できるということは、病や傷の痛みを大きく緩和
 することもできたのだと思います。「大医王」と呼ばれるに相応しい方であったのです。
 刺激を求め現実逃避的ないやしを求めているかぎり、日常のあらゆる出来事が「あたりまえ」
 のこととしか受け入れられず、感動のない生活を送り続けることになるのではないかと思い
 ます。「平凡でなんでもないことがどんなに大事かってことがよおく分かりますね」という
 ことば、反芻しています。