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10月16日〜

  はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、関東の地でお念仏をひろめるため活動をされていたのは、ほぼ20年間
 といわれています。越後から常陸に移られたのが42歳のころですから壮年期を関東
 で過ごされたことになります。
 60歳頃聖人は、関東の地をあとにして京都に向かわれます。その理由は定かでは
 ありません。推測ではありますが、聖人の主著であります『教行信証』の完成のため
 に、必要な文献を手に入れることのできる京都に戻る必要があったからという理由が
 ほぼ定説になっています。親鸞聖人のご著作がほとんど京都在住の晩年に著されたも
 のであることからも、それは肯けることであります。聖人の学者としての責任感が
 そうさせたのではないかと思います。
 常陸から京都へどのようなコースをたどられたのか、想像するのは楽しいことです。
 鎌倉時代のことですから、江戸はまだありません。門徒集団のあった鹿島を通り、
 房総半島を下って安房から海を渡って三浦半島へ。相模湾沿いを鎌倉を経て小田原
 から箱根越えをして駿河の国に抜けたのではないかと思います。
 東海道で、箱根越えは最大の難関です。覚如上人が著された『御伝鈔』の下巻第4段
 に親鸞聖人の箱根越えの時の出来事が書かれています。聖人が夜を徹して山を登り明
 け方近くに芦ノ湖に面した現在の元箱根でありましょう集落に近づくころ、麗しく
 装束した翁の出迎えを受けたとあります。翁は、箱根権現が夢に現れて尊敬する客人
 が来るから手厚く出迎えるようにとの御告げを受け、迎えに出たとのこと。そして、
 大いに聖人一行をもてなしたとのことです。
 この出来事、事実のほどは確かめようもありませんが、聖人一行の箱根越えへの思い
 入れが、覚如上人をしてこのような記述をなさしめたのだと思います。夜を徹しての
 箱根越え、体力的な苦しさと心細さが一行を支配していたに違いありません。人家が
 見えてきた時のその安堵感は、聖人と行動を共にしていた人々の語り種になっていた
 のかもしれません。覚如上人が『御伝鈔』を著されたのは親鸞聖人のご往生から30
 数年が経っています。その3年前に覚如上人は東国に出向いています。もしかすると
 覚如上人ご自身の体験からこの記述が創出されたのかもしれません。
 現在の箱根神社には、親鸞聖人の伝説にまつわるものはありません。しかし、
 長い歴史の中で親鸞聖人を慕う人々は『御伝鈔』をたよりに、箱根神社を訪れたに
 違いありません。
 次の法話テープの交換は11月1日です。
親鸞聖人の箱根越え