法話へ

平成20年11月1日〜

箱根の往来と念仏者
  はい、長念寺テレホン法話です。
 前回、覚如上人が著された『御伝鈔』にある親鸞聖人の箱根越えの時の出来事をお話し
 いたしました。現代と違い、夢が重要視された時代です。今では非科学的で荒唐無稽な
 話だと否定されてしまうことでありましても、親鸞聖人を慕い讃えていく中で「夢のお
 告げ」が大事な要素のひとつになっていたのです。
 箱根神社は、過去においては神仏聚合の寺院でもありました。江戸時代の箱根神社には
 親鸞堂という建物もあったということです。事実、明治以前には箱根山金剛王院東福寺
 というお寺であったとのことです。明治維新政府の神仏分離や廃仏毀釈という宗教弾圧
 とも言える介入政策により、形態が一変してしまったのです。現在、箱根町にある大谷
 派の萬福寺には、廃仏毀釈の折に箱根神社から譲り受けられた阿弥陀如来像があります。
 江戸時代、親鸞聖人を慕う人々が、『御伝鈔』をたよりに箱根を訪れたのでしょう。
 当時は車も鉄道もありません。徒歩で親鸞聖人の足跡をたどり、浄土真宗ではない寺院
 にまで親鸞聖人を偲ぶ施設が設けられていたことに驚きを覚えます。
 また箱根には、旧街道の甘酒茶屋の近くに、性信坊とのお別れの石があります。
 常陸の国から聖人をお送りしてきた性信坊とこの大きな石のある場所で最後のお別れを
 したとの言い伝えです。
 江戸時代、京都と江戸は往来が繁くあったのですから箱根は観光地というより経由地で
 ありました。東海道五十三次の宿場町ですから当然のことでしょう。江戸に幕府が開か
 れてしばらくすると本願寺は日本橋横山町に別院を建立しました。しかし、数年後に振
 りそで火事で消失し、今からちょうど350年前に築地本願寺が建立されました。
 本願寺関係者はもちろんのこと職人や商人などそれぞれの立場で多くの念仏者が往来し
 たことと思います。箱根の険しい山道を歩きながら、『御伝鈔』の一節を思い出してい
 たに違いありません。
 箱根権現の親鸞堂、そして旧街道沿いにある親鸞聖人と性信坊のお別れの石が生れるの
 にはそれなりの必然性があったということなのでありましょう。
 現在、箱根は全国でも有数の観光地です。毎年多くの人々がこの地を訪れます。
 そして、私たちにとっても、やはり箱根は親鸞聖人をみあとを慕う土地であるのです。
 それは『御伝鈔』の中の一節を拠り所とすることであり、思えばとても不思議なことで
 はあります。
 次の法話テープの交換は11月16日です。