法話へ

平成20年11月16日〜

無明
はい、長念寺テレホン法話です。
 最近言わなくなりましたが、以前はよく「色眼鏡をつけてものごとを見る」という言葉を
 使用しました。私たちのものごとを見る眼は、なかなか真実を見通すことができない、
 むしろ先入観など自らが積み上げてきた既成概念によってものごとを色分けしてしまい、
 正しい判断ができなくなってしまうことを、「色眼鏡をつけてものごとを見る」と言った
 ものであります。
 私たち人間は、自分勝手に決めつけをし人を裁いたり責めたりするのが大好きです。
 一歩下がって事実を見直すという作業を怠りがちです。光市の母子殺害事件、差し戻し
 裁判で死刑が確定しました。先日、この事件に関するドキュメンタリー番組が深夜に
 放送されました。この差し戻し審の弁護団、裁判の過程で事実認定を争ったり、荒唐無稽
 な被告の証言をさせたということで「人非人」と非難されています。それは、この裁判に
 関する報道が加熱し、死刑廃止論者の弁護団が事実を捏造して死刑を回避させようと企ん
 だと思わせられる状況をいつの間にか作ってしまったからです。
 しかし、事実は私の想像と異なっていました。前の弁護団の作戦が被告にとって少しでも
 軽い判決になるように検察の主張を充分な調査をすることもなく全面的に受け入れており、
 弁護士と本人との接触もほとんどなされていなかったのです。したがって、この差し戻し
 審が被告にとってははじめての事実上の弁護活動であったということでありました。
 母子殺人を犯したという事実、常人では考えにくい身勝手な主張。その事実を前にして、
 犯罪に対する憤りと戸惑いを覚えます。しかし、差し戻し審の弁護団の努力により被告が
 心を開き反省の弁をしたためていたことにわずかながらも光を見いだすことができたと
 思います。
 私たちは、マスコミが繰り返し流す情報の中で、喜怒哀楽の感情が操作されてしまい、
 私にとって分かりやすい(都合のよい)シナリオを作り上げてしまっていることを
 つくづく感じます。仏教ではそのような人間の起こす感情を「愚痴」や「無明」
 ということばで表現します。煩悩のひとつの姿です。それが過剰なバッシングを
 生んだり、戦争を肯定する社会状況を作り上げてしまうことを歴史は証明しています。
 私たちがそれらの報道に毒されているとも言えますが、むしろ私たちが求めている情報、
 私たちが興味を示すこと、そこに報道自体もおもねって番組を作成している現実も
 あるのではないでしょうか。仏教の説く「無明」とは、その本質を喝破しています。
 次の法話テープの交換は12月1日です。