法話へ

平成21年1月16日〜

親鸞教団の萌芽
はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人がご往生されたのは、弘長2年11月28日のことであります。この日付は
 旧暦によるものですから、現在の新暦に直しますと1263年1月16日になります。
 西本願寺では明治時代からは新暦を採用しご正忌報恩講をお勤めしています。
 ちなみにお東は、旧暦の日付のまま11月28日をご命日としています。どちらが正し
 いかというような野暮な話をする必要はないと思います。旧暦では11月28日である
 ことはまちがいありませんので記録は記録として正しいことです。また、季節の実感と
 しては新暦の方が体感的に言っても報恩講らしい陽気の時期であるとのことでありまし
 ょう。
 親鸞聖人は、「弟子一人ももたず」と教団を創る意図をまったく持っておられませんで
 した。教えの上に立てば、すべての人々は阿弥陀さまの前で平等であり共通の仏弟子で
 あります。みなが同じ道を歩むものであることから、師匠と弟子の関係は存在せず、み
 ながお同行でありました。聖人が「弟子一人ももたず」といわれたのはその立場からで
 す。 そして、教えの伝承の面からは、聖人はあくまでも法然上人のお弟子でありまし
 た。生涯を通じ、法然上人から学んだみ教えをお伝えしているとの姿勢を貫かれた方で
 す。 親鸞聖人は晩年を京都で過ごされました。しかし、京都でどのような活動をされ
 ていたのかは、よくわかっていません。法然上人の没後ほぼ30年を経ての帰洛でした
 ので、聖人が吉水時代にご一緒だった方々はいらっしゃらなかったのではないでしょう
 か。法然上人や親鸞聖人が赦免された後にも、比叡山の僧徒により法然上人の墓所があ
 ばかれたり、隆寛律師など法然上人の高弟が流罪になるなど、たびたび幕府や朝廷など
 により専修念仏禁圧が行われました。京都は念仏者にとって決して活動しやすい環境で
 はなかったのです。したがって法然教団が吉水時代の姿をとどめること自体がとても難
 しい状況であったのだと思われます。
 しかし、親鸞聖人が教化された土地では着実に念仏集団が育っていました。聖人が精力
 的に執筆活動をされたのは主にその方々のためであります。聖人のご著作は、ほとんど
 が晩年に著されたものです。お同行たちに、まちがいのないご信心をいただいて欲しい
 との願いのあらわれであります。
 また、関東のお弟子たちに対するお手紙が数多く残されています。『歎異抄』第2章に
 書かれていますように、わざわざ京都まで親鸞聖人を訪ねてこられるお同行たちもいた
 のです。まさに親鸞教団の萌芽は聖人ご在世のうちに着実にはじまっていたのです。
 次の法話テープの交換は2月1日です。