法話へ
はい、長念寺テレホン法話です。
  節分の豆まき、日本の年中行事として定着しています。テレビに映る豆まきの風景は
 ユーモラスでもあります。年男・年女と称して大の大人が豆をまいている情景はなん
 ともマンガチックです。
 「鬼は外、福は内」、鬼は己に降りかかってくるであろう災厄であり、福は待ち望ん
 でいる幸運であります。人生は、豆をまくことによって願いがかなうような簡単なも
 のではないことは、よくわかっているのだとは思いますが、結構真剣な顔をして豆を
 まいているところにおかしみがあり、この行事が定着している理由があるのかもしれ
 ません。
 昔は、突然襲ってくる病や伝染病は人知を超えた脅威であったことでしょう。また地
 震や台風などの自然災害も突然襲ってくる「鬼」のような災害だったのでしょう。戦
 乱や盗賊など人為的災害も「鬼」のなせる技だったに違いありません。今現在でもイ
 スラエルのガザ地区へ攻撃が止まりません。ひとの生命も生活の基盤も、戦車やミサ
 イルなど重火器によって容赦なくたたきつぶされています。
 しかし、日本におきまして現在では、医学が発達し予防医学に対する意識が高くなり
 ました。自然災害のメカニズムもわかってきています。また60数年らい日本は平和
 を保っています。ですから、病や自然災害や戦乱などを「鬼のなせる技」とイメージ
 するひとは少なくなっているのではないでしょうか。
 あるとき子供たちに「鬼を見たことあるひとはいますか」と尋ねたところ、絵などで
 は見たことがあるが、本物を見たことあるひとはいませんでした。その通り「鬼」は
 架空の生き物です。「ではなんでそのような想像上の生き物を対象に豆まきをするの
 でしょう」と重ねて質問しましたところ、鬼はひとの心の中に住んでいるのではない
 かという結論になりました。
 そのように、現在では、「鬼」を人知を超えた恐ろしい存在と見るよりも、人の心に
 住む鬼を考えるひとの方が多いのではないでしょうか。ただしその「鬼」を自分以外
 のものに考える傾向は強いと思います。「鬼は外、福は内」との言葉はその典型です。
 非常に楽天的なものの見方であり、豆まきを見ていておかしみを伴うのはそのような
 面があるからに違いありません。
 掲示伝道によく使われるの標語に、「人間みんな裁判官。他人は有罪、自分は無罪」
 というのがあります。鬼は、誰の心の中にもいるのです。仏教的視点に立って節分の
 豆まきを考えるのも面白いかもしれません。
  次の法話テープの交換は2月15日です。

平成21年2月1日〜

節分