法話へ

平成21年5月1日から

追悼それとも追善
はい、長念寺テレホン法話です。
 アサヒコムのニュースにこんな記事が出ていました。

 高村光太郎の妻、智恵子の洋画家としての業績を顕彰している「智恵子の里 レモン会」
 は26日、福島県二本松市内で総会を開き、毎年10月5日の命日に「レモン忌」として
 法要を行っている智恵子追悼会の名称から「追悼会」の文字を外し、今年から「追善会」
 とすることを決めた。

 智恵子が亡くなってから70年も経つので、すでに会合の趣旨が「追悼」ということばの
 意味である「悼んで悲しむ」ということでもないとの判断から、幸せを追求する会にした
 いとのことで名称を「追善会」に改めたということのようです。
 要するに、「追悼」ということばにマイナスイメージがあるということなのでしょう。
 しかし、親族や近しい方々にとっては、「追悼」ということばは故人への思いを的確に表
 現したものだと思います。しかし時代が経つとその思いがすでに共有されないということ
 なのでしょう。なぜか切ない思いがいたします。
 遺族の遺族の時代。戦没者に対する思いも同じなのでしょうか。戦没者の場合には、弔う
 ものの立場に、鎮魂とか慰霊というまったく別の要素も含まれてしまっていますから同列
 に論ずることはできないかもしれません。
 そしてさらに違和感を覚えるのが、「追善」ということばです。追善供養ということばが
 あるように、追善とは、故人のために善根功徳を手向けるという意味合いがあります。
 『盂蘭盆経』というお経には、目蓮尊者が地獄に落ちて苦しんでいる母親のために追善供
 養をして母親を救い出したという物語が説かれています。
 『歎異抄』第五章において親鸞聖人は、「私親鸞は、父や母の追善供養の目的で、念仏を
 申したことは一度もありません」と述べておられます。凡夫の身でありながら、故人に善
 根を施そうと考えること自体、おこがましいことと考えるからです。ましてや、念仏もお
 経も自分で仕上げた善根ではありません。私のできることはお浄土に生れさせていただき
 還相の仏になってからであると申されておられます。
 ですから、浄土真宗では、追善供養は考えません。
 「追善」ということばに違和感があるのは、追悼と違い、偲ぶ側が故人より高見に立つと
 の意味合いが潜んでいるからです。智恵子の里のみなさまは、追善を奨励するご宗派の
 方々であるのかもしれません。その方々を批判をするのではありません。ただ、
 浄土真宗の者としてお同行のみなさまに思いを共有していただければありがたいことだ
 と思います。
 次の法話テープの交換は5月16日です。