法話へ

平成21年8月1日〜

葬儀の簡素化
はい、長念寺テレホン法話です。
 お盆は先祖を偲ぶ習俗の一つです。最近では以前にも増してお盆とお彼岸は、
 お墓参りの人々で賑わいます。
 一方、最近では都市部で葬式をせず火葬のみで済ます「直葬」といわれる形態
 が増えつつあるということです。すでに東京では葬儀の簡略化がかなりの比率
 で進み、葬儀業界は危機感を持っているとのことです。
 この両極とも言えるふたつの現象が並列する社会を、私たちはどのように考え
 たらよいのでしょうか。年中行事そして通過儀礼としての宗教性には共通する
 ものがあります。しかし、一方では、多くの人が意識して参拝するのに、一方
 では、簡略化が進んでいます。
 葬儀の簡略化は、現代人が無宗教化しているからではありません。無宗教化が
 葬儀の簡略化につながっているならば、お墓参りも減るはずです。無神論のよ
 うな個々人の強い意志が葬儀簡略化の裏にあるとは考えにくいと思います。
 「死ねばごみと同じ。火葬して遺灰はどこかにまいてくれればよい」と考える
 人はそうはいないでしょう。人は、健康な時でも、たわいもない占い呪いに
 興味を示し、なにかがあるとタタリなどを気にしてしまいます。古代人でも
 現代人でも変わりありません。そのような人々が葬儀の無宗教化の煽りを受け
 るとしたら、それははなはだ危険です。確固たる信心を持たない現代人は、
 反社会的宗教に対しても無防備です。むしろ極度の宗教的弱者であるからです。
 それでは経済的理由でしょうか。簡略化の言い訳としては都合がよいのですが、
 これも理由づけとしては不十分です。すでに簡略化がなされているわけであり、
 僧侶へのお布施についても、偏ったお布施の情報のみが過剰に流布している現実
 があり、布施の本来の意味が見失われているに過ぎません。
 むしろ葬儀の簡略化の原因は、故人の意志とは別のところにあると思われます。
 私たちの属する社会が大きな変化にさらされているのです。現代社会は、地域も
 会社でも、長い間培ってきた強い絆が急速に失われつつあります。それは、親族
 やそして一番小さな社会の単位である家庭も例外ではありません。相互扶助に
 象徴される社会での強い絆は仲間意識や特定社会での安心感を育ててきました。
 しかし反面では、格差などが固定されやすくストレスも大きいものでもありまし
 た。そのためか近年、私たちの社会は大切な風習を次々切り捨ててきました。
 そしてここにきて、わずかに残されてきた葬儀の風習すらも、斎場を利用し自宅
 から葬儀を出さなくなることにより加速度的に風化が進んでいます。
 ただし、葬儀の簡素化は一概に否定されるべきものではありません。しかし、
 そこにおいて尊い生涯を終えた故人に対する葬送儀礼の意味合いを見失っては
 ならないことと思います。葬儀が遺族にとっての経済効率の視点からのみ論じ
 られ肝心なことが忘れられてしまってはいないか。とても気になるところです。
 次の法話テープの交換は8月16日です。