法話へ

平成21年8月16日〜

ご本尊
はい、長念寺テレホン法話です。
 私たち浄土真宗のご本尊は、阿弥陀さまであります。そして、絵像であれ、木像であれ、
 立ったお姿の阿弥陀さまであります。
 お仏壇の前にすわり、ご本尊を仰いでおりますと、阿弥陀さまが今にも私の所へ歩んで
 来てくだされるように思われます。
 親鸞聖人は、阿弥陀さまの本来のお姿について、
 「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」
 と言われ、私たちの想像をはるかに越えた大きな存在で、あえて喩えれば、光のようなもの
 であるとおっしゃっておられます。
 それでは、何故、本来ならば形に表すことが不可能な阿弥陀さまのお姿をご本尊と定めて、
 お参りするのでしょうか。
 そのことについて、本願寺三代目の覚如上人が、「阿弥陀さまの功徳を信じ喜ぶ心が、一度
 起これば、礼拝をするという行為のために、渇いた者が水を求めるように、安心して礼拝
 するために絵像や木像の本尊を、或いは彫刻し、或いは描いたのである」
 と、示しておられます。
 もし、厳密に、
 「阿弥陀さまは、本来いろもなく、かたちもない。光のように私たちを包んでいてくださる。
 だから、どちらへ向かって礼拝してもいい。偶像を拝むのではいけない。阿弥陀さまを感じ
 た時、何時でも何処でもお念仏をしなさい」
 と、いうことになれば、私たちはどうなるでしょう。きっと始めの内は、阿弥陀さまに心の
 向く時はあるでしょうが、だんたんとその間隔が広がり、ついにはわけが分からなくなって
 しまうでしょう。これは、正論であっても、煩悩の多い私たちにとりましては、保ちえない
 事であります。
 私たちが、毎日、ご本尊に礼拝するのは、ご本尊のお姿を通して、阿弥陀さまのお徳を改め
 て我が心に思い起こすためであります。また、始めてご本尊を「或いは彫刻し、或いは描いた」
 方々の慶びを共に味わっていくためであります。
 ご先祖もみな、阿弥陀さまのもとにお生まれになり、弥陀同体の仏として私たちのために働き
 続けていてくださいます。それを断言できるのは、阿弥陀さまという仏さまの働きが、まさに
 そこにあるからであります。だからこそ、お仏壇のご本尊は、阿弥陀さまでなくてはならない
 のです。
 次の法話テープの交換は9月1日です。