法話へ

平成21年9月16日から

 はい、長念寺テレホン法話です。
 最近、「絆」という言葉をよく耳にします。企業のコマーシャルで、イメージアップの目的でこの言葉が使用されているということは、現代社会で「絆」という言葉が好印象を得ていることに敏感に反応しているのだと思われます。
 ところが、現実社会では、あらゆる絆が加速度的に失われてきています。私たちの身近な地域社会でありましても、それはとても顕著に現れてきています。一例をあげますと、私たちにとりまして地域は生活上の大変重要な単位でありました。個を犠牲にしても地域に協力をするのは当然のことでありました。それが個々の生活を守る術でもあったからです。ただし、そこでの「絆」という言葉のイメージは、「わずらわしさ」だったかもしれません。
 しかし、現代は集団より個を尊重する時代です。個の主張の方が強い時代ということもできるのではないかと思います。個人情報保護法制定後の行き過ぎとも思える個人情報の遮断の流れは、小さな団体の名簿すらなくしてしまうという方向にあります。緩い絆でかろうじて結ばれている地域などは、もろにその影響を受けてしまったのではないかと思います。いままで常識と思われていたことが通じなくなり、いままで受け伝えられてきた伝統が失われてしまったことがあると感じておられる方は多いのではないかと思います。
 そして今、「絆」という言葉の流行です。失われたものへの憧れなのでしょうか。私はそうではないと思います。「憧れ」というよりも、不安の現れではないかと思っています。
 個人が尊重されるといいましても、保護というより放置の時代に入りつつあるのだと思います。地域社会の中で、習慣的に非常識と思われる状況が目の前で行われているとします。以前でしたら、その場に居る誰かが注意し、それとなく当事者を傷つけないように修正させていました。しかし、最近では、お年寄りが「違うよ」と言いかけようとはするのですが、あきらめてそのままやり過ごしてしまいます。「違う」と思っている人は多いのですがだれもそれを口に出しません。
 人間とは、ひとりではとても弱い存在です。その上、それぞれが煩悩を抱えていますので、正しい判断をするのは至難です。いままでは社会が足らない部分を補完してきていました。しかし、その習慣も崩壊しつつあります。したがって、とても危ういところの個に責任が集中することになります。不安になるのは当然のことと思います。不安は孤立化を助長します。強制力の強いカルト宗教などの反社会的集団はそこにつけ込もうとしています。
 今、社会は、緩い絆を求めているのだと思います。お寺は、その希望に答えていかなければならないのではないかと思っています。
 次の法話テープの交換は10月1日です。