法話へ

10月16日〜

ことばでは伝わらない?
 はい、長念寺テレホン法話です。
 み教えを伝えていく上で、もうすでにこの時代は、言語的な布教ではものは伝わらないとの意見を聞きました。仏教のことばを用いても、社会にその言語を共有する基盤がないから、空洞化が起こるというのです。これからの伝道は、一つの大きな拠点を基にネットワークを築くことにより信頼関係を構築していくことが重要だというのです。
 もっともなお話ではあったのですが、「言語的な布教ではものは伝わらない」と断定してしまうのはいかがなものかと思いました。仏教はインドが発祥の地ですから、各地に伝わる中で言語の問題はどの時代においても常に抱えてきたことであります。その時代、その地域に即応した「言語的な布教」への努力があったからこそ現代に伝わってきたのだと思います。
 親鸞聖人は、とてもことばを大切に使用した方でありました。聖人の主著であります『教行信証』から一例をあげますと、「南無阿弥陀仏」の六字のお名号(お念仏)を解説する中で、一つ一つのことばそして文字の意味を詳細に説き示しておられます。
 また、阿弥陀さまのお誓いを海に譬えて解説をされた最後には、その誓願のすばらしさを讃えて、そのはたらきを私たちにもわかりやすいたとえを持って示してくださっています。繰り返し繰り返し畳みかけるように説き聞かせてくださいます。私が最初に感じたことは、まだるっこく、とてもくどい文章のように思えました。しかし、一つ一つのことばの意味を理解していくなかで、聖人がぜひとも伝えたいという思いをひしひしと感じたことでありました。その大きな理由の一つはことばのリズムです。その部分を、声を出して読ませていただいたとき、とても感動したことを覚えています。親鸞聖人の思いを実感させていただいたような気がしたのです。
 まさに「説法獅子口」ということばの意味がわかったような気がしました。「説法獅子口」とは、お釈迦さまがおみのりを説かれた声は、獅子が吠えるがごとくに世に響きわたったという言い伝えです。
 ぜひともご一緒に原典にあたって読ませていただく機会を作りたいと思います。親鸞聖人はことばを大切にされましたが、ことばの限界もよくご存知だったのです。ですから一つの譬えだけではなく、これでもかこれでもかと畳みかけるように説き示し、私たちの想像を大きく超えた、まさに私たちの理解の範疇にはとどまらない阿弥陀さまのお働きを明らかにされているのです。
 次の法話テープの交換は11月1日です。