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平成22年2月1日から

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往生の共感
 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人のお手紙のなかに、「明法房の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ」という一節があります。明法房とは、山伏であった弁念そのひとです。明法房というお名前は、弁念が聖人に帰依した後、親鸞聖人がお付けになった法名です。私は、初めてこの部分を読んだとき、違和感を感じたことを覚えています。なんとなく聖人の冷たさを感じたような気がしたからです。
 しかし、親鸞聖人はただ教条主義的に、明法房の往生を喜んでいるのではありません。時期は異なるのですが、聖人が病に臥せっておられるとき、聖人の元におられた蓮位が代筆して関東のお弟子の慶信に書いたお手紙があります。その最後に、蓮位はその文を聖人の前で読み上げたことを書き添え、慶信の父の覚信坊の往生の記述のところで、聖人が「御涙をながさせたまひて候ふなり。よにあはれにおもはせたまひて候ふなり」と記しています。
 おそらく親鸞聖人は、明法房の往生のときも、涙ながらに、そのお手紙をしたためられたことであろうと思います。そして、それより先に、聖人が、上京した明教房から関東のお弟子たちが明法房の往生を確信しているとの話を聞かれ、その共感のもとで書かれたものであったのでありましょう。山伏として、加持祈祷をし、親鸞聖人を敵視して殺害を企てたこともあった人物が、回心して親鸞聖人とともにお念仏を喜ぶ人となったのですから感慨もひとしおのものがあったことでありましょう。
 ですから、聖人のお手紙を受け取った関東の人びとも、聖人のこのことばにあらためて涙を流しながら喜びあったことだと思います。冷たいどころか、暖かな心の交流がそこに存在していたのです。
 現代に生きる私たちにとって、身内や友人などの往生を共感しあうことができるでしょうか。はなはだ心もとない気がします。しかし、昔から、お念仏を喜ぶ人びとのあいだでは、お見舞いの場で、「往生の信は大丈夫か」という話が交わされていたのだそうです。また、「お浄土でまたあうことを楽しみに」という会話もよく聞くことであります。ともにお浄土という一つのところに生まれることを確信できることは、安心の中で生きていくことができるという大きなメリットが持ちます。まさに、こころのゆとりです。
 「往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ」との聖人の声に心から共感できる身でありたいと思います。
 次の法話テープの交換は2月16日です。