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抗うことのできない力の前で
 三河の一向一揆は、家康によって平定された後、戦国武将という武力によって成り立つ抗うことのできない強大な権力の元で、お念仏の信心は変貌していったのでしょうか。
 家康は、永禄7年(1665)真宗を禁教にし、寺を破却し僧侶を追放しました。
 国人や地侍は、家康に対し恭順の意を示すため宗旨がえを宣言せざるを得ませんでした。しかし、中根家のように表向きには宗旨がえを行い内実は門徒であり続けたあり方は、むしろ一般的であったのではないでしょうか。
 庶民にとりましては、門徒に直接刃が向けられない限り、家康の領民であることと門徒であることに矛盾はありませんでした。浄土真宗の道場の再興や、法座の復活は門徒にとって当面の強い願望であったに違いありません。蓮如上人創建の本宗寺は、破却された後、三河で最初に復興をすることができた寺院とのことです。家康に強く再興を陳情したのは、家康の叔母であったとのことです。家康の身近にも真宗寺院再興を願う人々がいたのです。
 真宗の禁教が解けるまで20年。家康の関与により東本願寺が建立されるまで37年。公然と真宗を名乗り活動をするまでには長い年月が費やされました。
 そしてまた、時やところが変わると、見えてくる姿は変貌します。江戸時代になり、江戸から少し離れた武藏国橘樹郡登戸村の長念寺を庇護した徳川の旗本中根家も100年経過すると、今度は門徒から見放されます。中根家との関係で、当時長念寺は東本願寺に帰属していました。しかし、元禄時代になり、門徒の総意で西本願寺に帰参することになります。ここで長念寺と中根家の関係は断絶します。江戸時代のはじめ、直参旗本の中根壱岐守は、家光に仕え幕府で強大な権力を持っていたとのことです。その権力や財力をもって既存の真宗寺院であった長念寺を庇護してくれたのですから、門徒にとっては都合の良いことであったように思われます。ところが、門徒には「本意とは違う」との思いが沈潜していたのです。また、中根家の姿も、代を重ねる中でおそらく建前であった宗旨がえが事実に変化していったということなのでありましょう。
 歴史上に次々と現れる抗いようのない大きな力の前で、弱い立場である庶民は、その圧力に身をさらしながら世代を超えて自らの信を守り伝えていったのです。
 私たちが学んできた歴史は、視点がごく限られたものであったことをつくづく感じます。戦国時代各地で起こった一向一揆、各武将による平定鎮圧の有り様など学んできたことはありますが、なぜ一揆が起こったか、平定後の門徒はどうなったか、ほとんど学ぶことはありませんでした。
 次の法話テープの交換は7月16日です。