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平成22年9月1日〜

はい、長念寺テレホン法話です。
 先日、朝日新聞に、「墓じまい」という耳慣れないことばが出ていました。その記事によると、出身地の墓地を整理し、遺骨を海に撒いて先祖の墓をおしまいにする行事だそうです。いろいろな事情があってのことなのだと思います。悩み抜いた上の決断だったのでしょう。その記事には、ことの善し悪しを示すようなコメントはありませんでしたが、マスコミは影響力が大きいので、安易にまねをする人が現れるであろうことを想像させる記事でありました。
 お盆の時期だったこともあるのでしょうが、テレビで葬儀の話題もありました。印象に残ったことばは「自分らしい葬儀」。ここで言う「自分」とは、送られる人ではなく、送る人、すなわち喪主のことでありました。最近では、ごく身近な親族だけで勤める家族葬という形態が増えているということです。そのテレビ番組では、葬儀のときの会葬者や花環の数が故人に対する評価だというような誤解を招く演出までありました。古来私たちは、故人に関係のあった方々にはできる限りお知らせしお別れをしていただくことが残されたものの勤めと考えていました。見栄で葬儀を派手にするのは誤りでありましょうが、故人に関係ある人々が集まればこそ、まさに「故人らしい葬儀」になるのではないでしょうか。
 故人の関係者を、「煩わしさ」などの自分都合で、排除してしまうのはいかがなものでしょうか。一昔前なら、このようなことは考えることもありませんでした。ごく最近の傾向と言うことができます。特徴としては、故人を含めた他者に目を向けることをしないで、傲慢とも言えるような決断をいとも簡単にしてしまうという点です。
 この傾向は、今後ますます進んでいくものと思われます。核家族化が進んだ上に、少子化社会となり、会社の雇用制度が多様化するなどして個々の関係性が薄まり、地域社会もその機能はごく限定されたものとなりました。人々の孤立化・孤独化は避けることのできない現実ということもできるのかもしれません。
 しかし、それで良いのでしょうか。私のいのちそのものが、多くのいのちのつながりの中にあることは事実です。孤立化・孤独化の風潮の中で、自らが、更に重ねて多くの縁を絶つことを選択してしまっているような気がするのは考えすぎでしょうか。
 故人も先祖もものを言いません。そこに甘えて、自分都合で物事を運ぶことは、よほど慎重にしなければならないことと思います。多少の煩わしさは乗り越えなければならないのです。そこでは、必ず、「尊いご縁」「不思議なご縁」に感動することができることと思います。
 次の法話テープの交換は9月16日です。