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平成22年9月16日〜

私は仏教徒
 はい、長念寺テレホン法話です。
 「あなたの宗教は何ですか」と問われたときに、「仏教徒です」と明確に答えることができますでしょうか。
 欧米や中東諸国では、自分の宗教を答えられることが信頼の条件の一つであるといわれます。動物の中で、宗教を持つのは唯一人間だけです。信ずる宗教を持つということは、自己の行動に規範を持つことであり、信頼できる人。宗教を持たない人は、動物と同じで欲望のままに行動しかねない信頼できない人である。との判断に立っているのです。
 仏教は、迷いを転じて悟りを開くことを目標とする宗教です。「悟り」すなわち「仏さま」を手本として生きるのが仏教徒の生き方です。浄土真宗は「阿弥陀さま」を手本とします。
 親鸞聖人は、念仏者の生活のあり方を説く中で、そのことを的確に指摘しています。
 「もとは、無明の酒に酔って、むさぼりやいかりや愚かさ(すなわち貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩)をのみ好んで食べているような生活をしていました。しかし、阿弥陀さまの誓いを聞きはじめてからは、無明の酔いも次第に少しづつ冷め、三毒の煩悩も少しづつ好まないようになってきて、おたがいに阿弥陀仏の薬を常に好む身となっております」
と、お念仏のみおしえに会って、生活のあり方が少しずつ変わってきたことを明らかにしておられます。
 ここで、私たちは、「無明の酔いも次第に少しずつ冷め、三毒の煩悩も少しずつ好まないようになって」きたというところに、注目しなければなりません。あくまでも「少しづつ」なのであります。
 現代の社会でも、仏教の用語を使いながら「凡夫だからしょうがないんだよ」と煩悩を肯定してしまって反省もしないひとがいます。それは、「薬があるのだから、毒を好んでもよいのだ」と言っているのと同じことといえるでしょう。
 親鸞聖人は、信心の人が「無明の酔いも次第に少しずつ冷め」ていきつつある身であることを指摘しつつ、また、「まだ酔いがさめきっていない」のも事実なのだと指摘されています。
 どのような迷える人々をも救わずにはいないという阿弥陀さまを鏡として生きること、それが私たち仏教徒であり浄土真宗の門徒のあり方であります。
 自信を持って「私は仏教徒です」と宣言できる身でありたいと思います。
 次の法話テープの交換は10月1日です。