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平成22年11月1日から

国家神道
 はい、長念寺テレホン法話です。
 明治維新、近代国家の始まりと言われている激動の時に何が行われたか。維新政府の号令のもと強引な宗教介入が実施されたのです。江戸時代は神仏習合の形態が一般的であり神社の多くは寺に帰属していました。維新政府は、天皇を中心とした国家神道建設の目的で神仏分離令を施行します。その基本理念には、廃仏毀釈があり、薩摩ではそれが徹底して実施されています。藩主である島津家の菩提寺をはじめとして寺院がことごとく破壊されてしまいます。薩摩藩は厳しい念仏禁制を布き、浄土真宗の門徒は隠れ念仏という姿で信仰を保っていました。実は、摘発され拷問などで犠牲となった人々の数は幕末維新の時代に多かったのです。
 しかし、この神道原理主義的な政策は、国民に受け入れられるものではなく数年で挫折してしまいます。
 この短い期間に、大きく変わってしまったのは仏教寺院よりも神社だったのかもしれません。村の鎮守や氏神として独立していた多くの神社は、お上の国家神道建設のための一村一社政策推進の号令で、人々の意志とは関係なく合祀を余儀なくされていくのです。もっとも、神社そのものが、皇室儀礼を中心とする国家神道とはほとんど縁のない存在であったはずですから、それぞれの神社の成り立ちをも含む根本を覆すような大きな変革だったのだと思います。
 強引な宗教政策は、人々の心まで変えることはできませんでした。しかし、政府の目論見とは別に国家神道が確立していくことになります。明治初期、徴兵制につぶれ屋敷を継ぐなどの苦肉の策で抵抗した庶民が、日清・日露などの戦争を経て、次第に国家神道の推進に大きな役割を果たすことになります。戦争による多くの犠牲があったにもかかわらず勝利という美酒に酔い、当初国民を支配していた厭戦気分はかき消され、マスコミも世論もいつのまにか好戦的になっていきます。国家神道は宗教という形ではなく学校教育の中で育っていきます。そして数次の戦争を経て、当初神道の国教化に疑念を表明していた仏教教団も国家神道推進協力の一翼を担うことになっていきます。そこでは敗戦まで軍の施設であった靖国神社の存在が大きな意味を持っていたのです。
 戦後、国家神道は組織としては存在していません。しかし、それを支えた国民のこころは整理されずに60数年を経てしまいました。近代史の中で、国の命運まで左右した国家神道について適切に整理し直される必要があると思います。
 次の法話テープの交換は11月16日です。