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平成22年11月16日から

孤立化・孤独化といわれる風潮
 はい、長念寺テレホン法話です。
昨年は、「縁」とか「絆」ということばが多く聞かれた年でありました。
すでに失われてしまったものへの憧れだったのでしょうか。今年になって、孤
立化とか孤独化ということばが頻繁に聞かれるようになり、「無縁社会」など
ということばも生まれてきました。
 人が生きるということは、多くの「ご縁」をつないで存在するということだ
と思います。そのことに感動できなくなった社会が現代ということなのでしょ
うか。知らないうちにお互いが支えあって生きている。それが社会ということ
だと思います。そのことに気づくチャンスに恵まれないのが現代人の一番の不
幸なのだと思います。
 周囲に迷惑をかけずには生きられないのが私たちです。あえて迷惑をかける
のとは違います。私たちは一人だけで生きていくことはできません。どのよう
な条件のなかでも他との関わりを排除することなどできません。またいのちの
つながりを考えますと、数知れないいのちのつながりの中に私があるのがわか
ります。単純計算で二十数代前まで遡りますと、億の数を超えてしまいます。
そのいのちの一つが欠けても今の私はないのです。そのいのちの広がりに驚か
されます。不思議としか言いようがありません。
 最近、「自分らしい葬儀」ということばに遭遇しました。そのことばに、何
ともいえぬ違和感を感じるのは私だけなのでしょうか。葬儀って誰が誰のため
にするのか。ここで言う「自分」とは誰のことか。疑問だらけです。
 生前中に「自分」の葬儀を考えられるのは、ごく限られた人だと思います。
ちなみに親鸞聖人は、私が死んだら遺体を加茂川に流して魚に与えよと言われ
たとの伝説があります。しかし、残された人々はそのようにはしませんでし
た。葬儀は送る立場の人々の思いも尊重されるべきものです。それはいわゆる
喪主だけではありません。故人に関係する不特定多数の惜別の情も考慮される
べきでありましょう。
 葬儀は派手にする必要はありませんが、故人に関わる人にはできる限り連絡
を取ってお別れしていただくのが残されたものの勤めと考えるのが普通でし
た。葬儀は、遺族にとって、故人が多くの人々に支えられていたことを知り、
感謝し、また自分も社会の一員として多くの人々に支えられていることに気づ
かされる、人生のなかでも数少ない大切な場でもあります。
 孤立化・孤独化といわれる風潮の中で、私たち一人一人が、ますます周囲と
の関係性を自ら断ち切っていくような決断をしてはいないだろうか。私たちの
先輩方が、「ありがたい」「もったいない」「尊いご縁」ということばを頻繁
に使ってきた思いを、今こそ強く伝えていかなければならないのではないかと
思っています。
 次の法話テープの交換は12月1日です。