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平成23年2月16日から

出遇い
 はい、長念寺テレホン法話です。
 長念寺では、毎年一年分のテレホン法話を『仏との出遇い』という小冊子にまとめて門信徒のみなさまにお配りしています。すでに26冊目になっています。
 この本の表題である『仏との出遇い』の「遇う」という文字が、普段見慣れない「未知との遭遇」と言う場合の「遇」という文字を使用しています。それには理由があります。
 最近では、「出会い」といいますと、「あう」という字は、会合の「会」か「合」を使用することがほとんどです。ですからこのように遭遇の「遇」を用いて「遇う」と表現しますと違和感を感ずる人も多いかもしれません。意図せずに嫌なものに出会ってしまった場合にこの文字を使うことが多いからだと思います。
 結論から申しますと、この「出遇い」という文字をあえて選んだのは次のような理由があるからです。
 阿弥陀仏さまは、私たちのために常に働き続けてくださっています。本当は、私たちは常に仏さまと出会っているのです。しかし、私たちが煩悩の眼を通してしか物事を見ることができないために、仏さまのはたらきに気づくこともできないでいます。でも、「ああそうだったんだ、私のために働き続けてくださったのだ」と仏さまの声が聞こえてきたとき、仏さまのはたらきを感ずることができたとき、そのときが私にとって「仏さまとの出遇い」と感じられるということから、この文字を使用しているのです。
 私たちの出会いは、不思議なご縁と思えることもしばしばありますが、どのような場合でも私の意図が働いています。しかし、仏さまの場合には、いつでもどこでも私のために働き続けてくださっているのですから、私が意図する前に、出会いはすでに完了しているのです。でも、気づかないのは私だけです。
 だからこそ、気づかされたときが私にとっての「出遇い」であることからこの字をあえて使用しているのです。
 浄土真宗は、「聞法」すなわち仏法を聞くことをとても大切にします。親鸞聖人は「聞」という字を大切に使用しています。同じ聞くという字でも、「聴聞」の「聴」という字は「聴診器」ということばに象徴されるように、私の聞くという意思が働く場合に使用されますが、「聞」という字の方は、聞こえてくるものを感じ取るという意味合いが強くなります。
 仏さまに「出遇える」、仏さまの声が「聞こえる」。そのような機会を是非とも増やしていきたいものです。
 次の法話テープの交換は3月1日です。