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平成23年5月1日〜

苦海をいかでかわたるべき
 はい、長念寺テレホン法話です。
 前回、「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさ
ずは 苦海をいかでかわたるべき」という親鸞聖人のご和讃を紹介しました。
 ここで言う「小慈小悲」とは、「大慈大悲」に対することばです。
 みなさんもよくご存じの『恩徳讃』に、「如来大悲の恩徳は」とありますよ
うに、「大慈大悲」とは如来の大慈悲のことであり、仏さまのお慈悲、すなわ
ち最も優れた慈悲の有り様を表現して「大慈悲」とか「大慈大悲」と言うので
す。親鸞聖人は、「すえとおる」ということを最も重視しておられます。『歎
異抄』第4章には「すゑとおりたる大慈悲心」と表現しておられます。自利利
他円満の仏さまであるからこそ適う慈悲のあり方です。摂め取って捨てること
のない慈悲。まさにお浄土の仏さまであるからこそ成り立つ慈悲の姿です。
 『歎異抄』第4章で聖人は、その「浄土の慈悲」に対して、「聖道の慈悲」
を示されています。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」慈悲です。菩薩
さまの慈悲です。菩薩さまはまだ、自利利他円満の仏さまになっていませんか
ら、我が身を削らなければその慈悲を貫くことはできません。ですから、菩薩
の慈悲を「大慈大悲」に対して「中慈中悲」と言います。凡夫の慈悲である
「小慈小悲」との中間に位置する慈悲の有り様です。
 親鸞聖人は、このご和讃の中で、ご自身のことを「小慈小悲もなき身」と断
言されています。どんなにいとおしく思い不便と思っていても、守り通す力量
を持ち合わせていません。我がいのちそのものにも限界があります。どんなに
慈悲をかけようとしても首尾一貫することはあり得ないのです。「すえとおら
ない」のです。如来の大悲の前には「小慈小悲」と言うこともおこがましいと
いうことであります。
 火宅無常の世を共に生きるひとりとして、人々の悲しみ苦しみに寄り添う中
で、親鸞聖人が「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」と言われた
のは、常にお念仏すなわち如来さまのお慈悲のはたらきを聞き続けておられた
からこそなのです。如来さまのお慈悲の前では、聖人ずらして利益を施した
り、善根功徳を積むと思うこと自体まったく意味のないことであります。如来
さまのはたらきに背中を押されて、小慈小悲もなき身であっても、迷いなく生
きることができること、火宅無常の世を安心して寄り添って生きていくことが
できることを明らかにしておられるのです。そのことを踏まえてもう一度この
ご和讃を読んでみましょう。
 「小慈小悲もなき身にて  有情利益はおもふまじ
  如来の願船いまさずは  苦海をいかでかわたるべき」
 次の法話テープの交換は5月16日です。