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平成23年5月16日から
力まずに、できることをする
 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、自らの愚かさを強く自覚していたからこそ、阿弥陀さまのお慈悲の後ろ楯をもって力強く人生を歩んでいかれたのです。
 「如来の願船いまさずば いかでか苦海をわたるべき」です。
 私たちは、宗教を考えるとき、まず教義があって、それにもとづいて人生を送るのだと思ってしまいがちです。教条主義というのでしょうか、「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」と言われると、私たちは、「ほんの少しばかりの慈悲と言えるような心をも持ち得ていない身であるのに、人々を救おうなどという大それたことを考えてはいけないのだよ」と親鸞聖人が言っているのだと思ってしまいかねません。
 親鸞聖人は、そのようなことを言ってはおられません。「如来さまがいらっしゃるのだから安心して共に歩もうよ。菩薩さまのまねをして力む必要はないのだから、できることをすれば良いのです」と示してくださっているのです。
 小林一茶の、無邪気とも思える明るい句は、恵まれない不幸せな家庭生活の中にありましても、念仏者として浄土真宗のみ教えの中に生きていたからこそ生まれてきたのだと思います。まさに、突き抜けた明るさと言えるのではないでしょうか。
 東日本大震災の後、テレビコマーシャルで繰り返し流されていた「こだまでしょうか」という詩、私たちの心を打ちました。その詩の作者である金子みすゞも、26歳という短い生涯でしたが、晩年は大変悲惨な生活でありました。
 金子みすゞが育った、山口県は、浄土真宗の盛んな土地で、みすゞさんも法話を聞く機会が多かったのだと思います。「わたしと小鳥とすずと」という詩の最後の行、「みんなちがって みんないい」は、『阿弥陀経』の「青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり」の心を表しています。法話ではよく引用される所ですので、耳の底にとどまっていたことばや感動を、みすゞさんなりのことばで詩に表したものだったのでしょう。
 「星とたんぽぽ」という詩に、繰り返し出てくる、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」ということば。僧侶が、こどもたちに阿弥陀さまという仏さまの存在を説明するとき、よく使う表現です。
 金子みすゞさん、生きた時代が現代であればもっと長く生きることができたことと思います。そうしたら、み教えに根付いた力みのない詩を、もっと聞かせてくれたに違いありません。
 次の法話テープの交換は6月1日です。