一向一揆後の真宗寺院

平成23年9月16日〜

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 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、お念仏の信心を得たら、自分自身のことや社会のことに対して、今までのこころのままではいられないと仰っておられます。
 しかし、近世以降の浄土真宗の歴史の中では、自身のこころを問いなおす生業は常に行われてきましたが、社会など他に対する働きかけは、全く行われなかったと言っても過言ではありません。むしろ、その時代ごとの社会状況に適応する形でみ教えが説かれてきました。そして、残念ながら親鸞聖人のお心に反して、現実にある不合理には目をつぶり続けてきた側面もあります。
 たとえば江戸時代、封建制度の中では儒教倫理の「忠」や「孝」が強調され、身分制度を脅かす思想は危険視されました。ですから仏教においても、政治的な富の偏りによる貧困についても、「それは、前世のおのれの業によって今があるのだから、しかたがないのだ」と現実を肯定するかたちで法が説かれたのです。
 しかし、親鸞聖人は、そのようには説かれませんでした。「往生の信心は、お釈迦さまと阿弥陀さまのお勧めによって起こるのですから、その信心をいただいたならば、どうしていままでのこころのままでいられましょうか」と説かれているのです。「信心をいただいた今」からの出発なのです。
 中世において、一向一揆が起きたのは、大きな矛盾を抱えていた当時の社会制度の中で、起こるべくして起こった民衆運動だったのではないでしょうか。一向一揆については、いろいろな側面が考えられます。豪族の争いに巻き込まれたという側面もありましょう。しかし、そのひとつに、お念仏の信心をいただき、現実の社会状況の矛盾が見えてくることによって、自分たちの手でなんとかしなければいけないという信心の生業があったのであります。
 しかし、本願寺系の寺院は、戦国時代から江戸時代へと進む課程で、戦国大名などから一揆の有無に関わらず危険思想の持ち主であるとして排除されることになります。関東では、戦国大名の後北條氏により弾圧されます。一番ひどかったのは鎌倉にあった真宗寺院。一切排除されたそうです。
 浄土真宗の寺院には、以前は異なる宗派だったとの言い伝えを持つ寺院が多くあります。世を忍ぶ仮の姿だったのかもしれません。長い歴史の中で埋もれてしまった事実。もし掘り起こすことができるならば是非知りたいものだと思います。興味は尽きません。
 次の法話テープの交換は10月1日です。