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平成23年10月16日〜

薩摩かくれ念仏
 はい、長念寺テレホン法話です。
 10月13、14の2日間、ご門徒と一緒に鹿児島のかくれ念仏の遺跡を訪ねてまいりました。薩摩藩の念仏弾圧は300年の長きに渡り続き、その間摘発された門徒は14万人にものぼると言われています。それはかくれ吉利支丹の弾圧を遥かに超える悲惨な歴史です。この度、かくれ念仏の里を訪ね、薩摩藩の役人の目を避けて洞窟などで法座を行い、お念仏の教えをまもり伝え続けた事実に触れることができ、深い感動を覚えたことでありました。
 信心の生活をまもるために、御本尊を役人に発見されないように目立たずに運ぶ工夫や、家のなかにあってもいつ役人に踏み込まれてもよいように御本尊を柱の中に隠すなど工夫をしています。そして、京都のご本山とのパイプもしっかりと保たれています。何世代にも渡り地下に潜行し信心をまもり通したのです。また武装蜂起など藩に対する実力行使などは行われていません。これは、特筆すべきことであると思います。当時の人々はどのような思いで信心をまもり通したのでしょうか。
 お寺を造ることはできず僧侶も公然と薩摩に入ることはできませんでしたが、人々は講を作り、山深い場所や洞穴(ガマ)や舟の上で法座を開き、また密かに肥後の国の水俣のお寺に聴聞に出かけました。確固たる信心と念仏者としての誇りが、弾圧をくぐり抜ける大きな力となったのだと思います。
 私たちは、鹿児島別院でかくれ念仏の歴史を学び、知覧にある立山念仏洞と花尾の念仏洞を訪れました。立山の念仏洞は平地にあり樹木で目隠しをした人工の洞穴で、中には15〜6人が集うことができるようになっています。集会の合図はどのようにしたのでしょうか。花尾の念仏洞は人里から離れた山の中の洞穴です。自然の洞穴を堀広げたものと思われます。それらは薩摩の浄土真宗が如何に厳しい状況におかれていたかを強烈に印象づけるものでありました。外に見張りを立て不自由な中で法座を続けてゆくことができたのは、信心のよろこびがあったからこそでありましょう。
 薩摩において浄土真宗の禁教が解けたのは明治9年9月のことです。明治維新の推進母体のひとつであった薩摩藩、神道国教化政策を進める中で、徹底した廃仏毀釈が実施されました。藩主である島津家の菩提寺もその例外ではありませんでした。
 寺院がなくなってしまった薩摩の地に、本願寺は鹿児島開教を実施します。その結果、鹿児島は浄土真宗が栄える地域となります。かくれ念仏の歴史は、浄土真宗の歴史の中で、つらい悲惨な歴史でもあり、また力強い信心の歴史でもあります。
 次の法話テープの交換は11月1日です。