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平成23年11月1日〜

たくましい信心
 はい、長念寺テレホン法話です。
 薩摩かくれ念仏の遺跡の一つ、花尾の念仏洞を訪れた時は、雨模様でありま
した。前日鹿児島別院で、雨のときには、花尾の念仏洞へ行くのは滑りやすく
危険だと伺っていたので、半ばあきらめの気持ちで東俣出張所を訪れました。
しかし、花尾のご門徒のみなさんが私たちを受け入れるため準備をしていてく
ださり、時折風の吹きつける雨の中、全員で急な山道を登り念仏洞を参拝する
ことができました。
 役人の目をかすめて念仏講を開くには、まさにこのような天候のときが最も
適していたのだということです。往時を偲ぶには最良のタイミングだったのか
もしれません。
 薩摩藩にとって、300年もの間、念仏を弾圧し続ける理由はどこにあった
のでしょうか。弾圧をはじめた理由も、薩摩藩において一向一揆があったとい
うことではなく、風評によるものと推察されます。おそらく弾圧そのものも、
常時厳しい状況ではなかったのかもしれません。しかし、弾圧がなくとも念仏
禁制が解かれない限り安心することはできません。真宗門徒にとっては、「か
くれる」という状態は続くことになります。
 弾圧は、幕末になるほど厳しくなったといわれています。封建制度の中での
身分の固定化に起因するものなのかもしれませんが、なぜ薩摩藩と相良藩のみ
で常態化したのか、その理由がわかりません。門徒であることが発覚した場
合、それが士族であれば農民に身分を落とされたということであります。鹿児
島別院で見せていただいたかくれ念仏のビデオでは、門徒の生活の厳しさや貧
しさが強調されていました。
 幕末には、門徒のほとんどが農民であったということでありましょう。ふと
思ったのですが、幕末には、藩の役人になる身分の人々と農民の間で、生活水
準の逆転が起きていたのではなかったか、それが弾圧に拍車をかける一因であ
ったのではなかろうか。などと想像を巡らせてしまいました。
 鹿児島のかくれ念仏の里を訪ねる旅は、私たちに強烈な印象を残しました。
300年もの間、このようなつらい状況の元でお念仏の信を守り通したので
す。300年というと、何世代になるのでしょうか。現代人ならば、簡単に楽
な道を選んでしまっただろうと思うと、その世代を超えたたくましい信心に驚
きを覚えるのみであります。
 次の法話テープの交換は11月16日です。