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平成23年11月16日〜

親鸞聖人の北関東移住
 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、流罪が赦免となってから、なぜ越後から北関東に移住されたのでしょうか。恵信尼さまの実家である三善家の領地が常陸にあったとの説が有力なようです。しかし、縁故ということのみで考えるのはあまり説得力がないような気がいたします。
 親鸞聖人としては、赦免になったからには、念仏弾圧の理論的根拠となった「延暦寺奏状」や「興福寺奏状」、また法然上人の著された『選択本願念仏集』を批判した栂尾の明恵による『摧邪輪』などに対する、仏教の教義学に基づいた反論を書きたいとの衝動にかられていたに違いありません。
 鎌倉時代は、京都と奈良が、最も文献の揃った場所でした。しかし、南都北嶺のお膝元、まだ念仏弾圧の気運が治まったわけではありません。親鸞聖人には、必要な文献が揃っていて比較的自由に文献を繙くことができる土地であることが必要条件であったに違いありません。当時の北関東は、それにふさわしい場所であったということであると思います。
 現代に生きる私たちは、東京を中心に物事を考えてしまいます。800年前の南関東はどのような所だったのでしょうか。東京はありませんでした。もちろん江戸もまだ存在していません。大水の度に流れの変わる複雑な河川と湿地帯により、交通もままならない不便な土地だったのです。当時の街道は、鎌倉から三浦半島を南へ降り、海をわたって安房の国へ行き、房総半島を北へ、鹿島行方そして常陸へ向かったのです。鎌倉は幕府が開かれ栄えましたが狭い土地です。当時は、関東平野の北部で肥沃な台地を要する常陸が文化の栄えた地域であったに違いありません。
 親鸞聖人は、『教行信証』を常陸でほぼ完成させます。親鸞聖人750回大遠忌を記念して、春には京都市美術館で『親鸞展』が開催され、今、上野の国立博物館で『法然と親鸞展』が開催されています。普段見ることのできない、親鸞聖人のご真筆の書籍を直接拝見することができました。親鸞聖人が精根込めて仏教典籍を読み込み、研究を重ねて行かれたその課程を目の当たりにし、あらためて、当時の、北関東はどのような所であったのかと、想像を巡らしてしまいました。
 お念仏のみ教えを人々に説くために、健脚をもって関東一円を縦横無尽に歩かれたお姿。また、学者として書庫に籠もり、研究に没頭されたお姿。聖人の絵像や木像などのお姿を通して往時を偲ばせていただく良い機会に恵まれたことであります。
 次の法話テープの交換は12月1日です。