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平成24年3月16日〜

仏教的思考方法
 はい、長念寺テレホン法話です。
 最近では、自己評価とか第三者評価などと言う言葉がよく聞かれます。人間、他人を評価するのは案外好きなのですが、よく考えてみますと評価するということはとても難しいことです。まず評価の基準がどこにあるかで結果が全く異なります。また、加点方式法と減点方式では、印象が全く異なってしまいます。概して人は、自分に対しては常に加点方式で評価しているので、評価がすごく甘くなりますが、他人に対しては減点方式をとるのでとても厳しくなります。
 私たち人間はみな、自分を是として生きています。「自分は正しい、間違っているのは常に他人だ」と信じているということが個々の生きる支えになっているといっても言い過ぎではないかもしれません。
 人の失敗を責めるのは、そのための訓練をしなくても上手です。
 例えば、誰かが茶碗を落として壊してしまったとします。そのような時、結構的確に、場合によっては必要以上に注意し、責めてしまったような経験を持っているひとは多いでのではないでしょうか。むしろ経験のない人を探す方が難しいでしょう。
 では、自分が茶碗を落として破った場合はどうでしょうか。「落ちてしまった」と引力のせいにするのが関の山です。
 一事が万事です。他人に厳しく自分に大甘。それを繰り返して生きているのが現実です。
 自己を見つめること。それは簡単なことではありません。得手勝手な人間が自分の都合で考えても自ずと限界があります。
 「絆」という言葉、今最も人気のある言葉の一つです。しかし、現実には地域の縁も血縁も薄らいでいく一方です。最近、都会での孤立化が問題になっています。団地の中で老々介護の親子が人知れず亡くなられていたということが続きました。「絆」という言葉、人気があるといいましても、自分にとって心地よい集団的なつながりとしか理解されてないということなのかもしれません。絆を維持するためには煩わしさも伴うものと思います。「煩わしさ」を乗り越え「お互いさま」ということが理解されてこそ「絆」が成り立つのだと思います。
 仏教は、そのような人間の心をとことん追求し分析します。「悟り」また「阿弥陀さま」という理想を基準に分析します。お釈迦さまも、親鸞聖人も、とことん自己を見つめ続けていかれた方です。仏教的思考方法、私たちの生活のなかでもとても意味のあるものと思います。
 次の法話テープの交換は4月1日です。