法話HPへ

平成24年5月1日から

方便法身の尊形
 はい、長念寺テレホン法話です。
 お仏壇の御本尊、絵像の御本尊の場合、裏返してみますとご門主のお名前と印が押してあり、「方便法身の尊形」と書いてあります。
 「方便」と言いますと、現在では「うそも方便」と言うように、あまり良い意味では使用されない言葉になっています。しかし、この言葉は仏教ではよく使われる言葉であり、真実を明らかにするための「てだて」のことを「方便」と呼びます。
 このことは、仏教におけるものの見方の基本に則っています。
 お釈迦様が悟りを開かれたとき、その悟られた真理(すなわち法)を人々に説くことを躊躇されたといわれています。それはあまりにも難解で、人々の理解を超えており、説くことにより正しく理解できないだけでなく、誤解を生じてしまうことを恐れられたからです。しかし、お釈迦様は法を説くことを決断されます。その内容は、世俗の言葉で分かりやすく、人々の器量に応じて解きあかされました。
 すなわち、仏教では、真理について、私たちの思議を超えた、想像することも描くこともできない真実(第一義諦=真諦)と、私たちの言葉や想像の範囲で表現される真実(世俗諦=俗諦)の二つがあると考えます。そして、私たちの言葉や想像の範囲で表現される真実は、私たちの思議を超えた真実を導き出すための「手だて」、すなわち「方便」であると考えるのです。したがって、どちらも真実であると仏教では説いているのです。
 ですから、私たちは、毎日お仏壇の前で手を合わせていますが、目の前のお姿を拝んでいるというよりも、私たちをいつも包み込んでくださっている大きなはたらきとしての阿弥陀さまに手を合わせているのです。
 お家のお仏壇の阿弥陀さまも、お寺の本堂の阿弥陀さまも、ご本山の阿弥陀さまも、みな方便法身の尊形です。真実の阿弥陀さまのお姿を私たちにお示しくださっているお姿なのです。もし、拝む御本尊によって功徳がちがうと考えるとしたら、お釈迦さまが恐れていた誤解を私たちがしてしまっているということになります。
 私たちの言葉や想像の範囲で表現される真実には、限界があります。お経には、阿弥陀さまの浄土を、私たちの身の回りにあるすばらしいものや、心地よい感覚で表現しています。しかしそれを荒唐無稽な物語と理解してしまう人もいるでしょう。しかし、それは真実に導くための方便と考えれば納得がいきます。ただ、私たちの悪い癖は、月を指す指にこだわってしまい、月を見ることができなくなってしまうことです。たとえ話の意図を理解した時点で、素直に納得すれば良いのに、たとえにこだわって真実が見えなくなってしまうのです。
 次の法話テープの交換は、5月16日です。