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平成24年5月16日〜

二種法身
はい、長念寺テレホン法話です。
 前回、お寺の本堂やお仏壇の御本尊は、方便法身の尊像であるとお話しいたしました。本来阿弥陀さまは、私たちが思い描くこともできない大きな、そして不可思議なはたらきをもった仏さまであるのです。そして、そのお姿を私たちに分かりやすいように示してくださったが、私たちが毎日お参りさせていただいている御本尊であるということです。
 50年ぐらい前の話ですが、ある新興宗教が盛んに布教活動を展開してた頃のことです。その宗教団体は、浄土真宗のご門徒の家にも勧誘にやってきました。その時の勧誘マニュアルの中に、「仏壇の本尊の裏をみてご覧なさい。方便と書いてあるでしょう。あなたのお寺では嘘の仏さまを拝ませているのですよ」と言って驚かせるという手法があったのだそうです。実際に当時は、その家の仏壇を燃やしてしまうということまでしていたとのことです。
 仏教では、「方便」ということは、教えを説く上での基本的な考え方であり、私たちにとりましては「方便」なくしては、真実にたどり着くことは不可能であると考えます。この考え方は浄土真宗に限ったものではありません。仏教の基本的な考え方であります。しかし、言葉は仏教の専門用語であったとしても、一般に広く使用され始めますと、次第にその意味が変化してきてしまいます。仏教本来の積極的なプラス思考の言葉である「方便」という言葉も、時代と共に、いつの間にか「嘘も方便」とマイナス思考の言葉に変化していきます。ですから、そのことを知った上で、かの宗教団体は、無知な真宗門徒を懐柔しようとしたのです。
 専門用語で、色もなく形もましまさない真如・空の仏さまを、「法性法身」と言います。その真如より名前をあらわし形を示された仏さまを「方便法身」と言います。この二種類の仏さま(二種法身)は決して別々のものではありません。
 専門用語を使っての、少々煩わしい説明になってしまいましたが、私たちは理屈でそれを認識しているのではありません。感覚として身につけているといっても良いでしょう。私たちが御本尊に手を合わせるとき、それが家のお仏壇であっても、お寺であっても、またご本山であっても、その礼拝の対象が別の仏さまだと考えてはいません。同じ阿弥陀さまにお参りしているのです。
 もし、その感覚がなかったら、どこそこの阿弥陀さまはなんとかのご利益があると思ったり、家の仏壇とお寺と本山ではご利益の大きさが違ってくるなどと言い出しかねません。そうなると、真実の阿弥陀さまに思いは至りません。月を指す指の形状にこだわって、月を見ることがないのと同じことになってしまいます。
 次の法話テープの交換は6月1日です。