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平成24年6月1日〜

知恵と知識
 はい、長念寺テレホン法話です。
 仏さまの心は、智慧と慈悲に象徴されています。仏さまの智慧とは真実を見る目です。自他ともに迷いの闇を打ち破る目です。そして慈悲とは、ものをあわれみ悲しみ育む心です。その慈悲とは智慧から生ずるものであり、智慧と慈悲とは一体です。
 ご法話を聴聞しているとき、布教使さんが黒板に智慧という字を書くとき、わざわざ旧字体で書いていることにお気づきでしょうか。比較的若い布教使さんも旧字体で書いていることが多いです。「若いのに旧字体で書くなんて」と不思議に思われたことのある方もいらっしゃることと思います。
 それは、仏教を学ぶ上で、仏さまの智慧と、衆生すなわち私たち凡夫の知恵の違いを、明確に認識するために仏さまの智慧をわざわざ旧字体で表記する伝統があるからなのです。
 知恵とは、物事を正しく判断して処理する心の働きをいいます。私たちにとりましてもとても大切な心のはたらきです。しかし、今では「知恵」より「知識」という言葉を多く聞きます。現代社会の中で、知識偏重の風潮が主流を占めているからだと思います。
 しかし、知識が豊かなひとが知恵を持っているとは限りません。私たちは、社会を勝ち抜く豊富な知識を持った人達でも、知恵が無かったのだなあと思われるような事件をしばしば耳にすることがあります。知恵があっても精々「悪知恵」ということでは話になりません。
 もともと知恵というものは学んで得るものではないようです。「生活の知恵」という言葉がありますが、学校で学ばなくても自然に身につく知恵があったのです。ところが、それがいつの間にか、知識にとって変わられてしまいました。専門職という言葉がありますが、現在では、技術を伴う職業でさえ、机上の知識でまず免許や資格をとり、それから経験を積むというパターンが定着してきています。私たち現代人は、インターネットなどから情報を知識として受け入れていきます。インターネット上には溢れんばかりの情報があります。便利ですが、一方的な情報にさらされるのみです。私たちは、もっと生活の知惠を磨くことに神経を使わなければならないのではないかと思います。
 仏教では、経典の言葉や仏教用語をたくさん知っていても、それが信心に結びつかなければ、ただ知識欲を満足させているだけに過ぎず、真に仏教に生きているとは言いません。仏教は、仏さまの智慧をいただく教えと言うこともできます。信心をいただくためには、仏教用語などの知識は必要条件にはなりません。信心とは、仏さまの真の心をいただくことです。仏さまの真の心を感じることと言ったほうが分かりやすいかもしれません。
 次の法話テープの交換は6月16日です。