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平成24年9月1日から

 はい、長念寺テレホン法話です。
 朝、窓際にある金木犀でミンミンゼミが鳴き、目が覚めました。するともう
一匹、自信がなさそうにジージー鳴きはじめたのですが、その蝉もいきなり覚
醒したかのようにけたたましくミンミン鳴きはじめました。それからのちは、
ミンミンゼミの大合唱がはじまり、もう寝るどころの騒ぎではなくなりまし
た。
 当地は、かつては梨園がたくさんあった地域で、現在は都市化が進んではい
ますが、まだ多摩川梨の栽培農家が点在しています。長念寺の周辺も数年前ま
で梨園がありましたので、非常に蝉が多く、8月中は庭に出ると蝉が体当たり
をしてくるのは日常茶飯事でした。ただ蝉の種類は油蝉がほとんどで、ミンミ
ンゼミはたまに鳴き声を聞く程度でありました。夏も終わりに近づき少し気温
が下がりはじめるとツクツクボウシが鳴き、ヒグラシが鳴くようになると夏も
終わりを告げたものであります。
 しかし近年では、ミンミンゼミの数が増え、このあたりにはいなかったクマ
ゼミの声も聞かれるとのことです。
 蝉といいますと、親鸞聖人が『教行信証』の信の巻きに引用されている
  「けい蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」
という有名なたとえ話を思い出します。「けい蛄」とはヒグラシのことです。
蝉は、夏に地中から出て成虫になります。成虫になって7日間のいのちといわ
れています。ヒグラシにとりましては春も秋もその季節を認識することは不可
能なことです。したがって、どうして「朱陽の節」である夏を知ることができ
ようか。と蝉になぞらえて、狭い認識の元で物事を考えても目の前にある真実
さえ知ることができないということを譬えています。
 人ごとではありません。私自身がこのたとえで言うところの「蝉」のように
視野が狭くなってしまっているのではないか。または、物事を判断するには、
私自身が「蝉」でしかないのではないのだろうか。ということに気づきなさい
ということではないかと思います。
 親鸞聖人のご和讃に、
  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがほは
  おほそらごとのかたちなり
とあります。
 蝉の声に眠りを妨げられ、眠い目をこすりながらも、蝉の声によって親鸞聖
人のお言葉を思い出させていただきました。
 次の法話テープの交換は9月16日です。