平成24年9月15日〜

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むなしくすぐるひとぞなき
 はい、長念寺テレホン法話です。
 9月に入り、さすがにミンミンゼミの大合唱は終わりましたが、まだ暑い日が続いています。今年地上に出ようとしているセミの幼虫もそろそろ終わりになったようですが、昼間にはツクツクボウシの鳴く声が聞こえてきます。さすがに夜には秋の虫の声。気温はまだ真夏ですが、秋の準備はいたるところで始まっているようです。
 前回、ご紹介した、
  「けい蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」
夏に地上に出て成虫となるセミは、春も秋も知ることはありません。したがってこの虫にとっては自分が地上でいのちを謳歌している夏という季節がどの樣な時であるかを知ることはできないというたとえ話。私たちの身の回りにもたくさん似たようなことがあることに気づかされます。
 そして、仏教では、人間に生れたことについても言及します。
 仏教において、私たちは生まれ変わり死に変りいろいろな「いのち」を経て今人間として生きていると考えます。六道輪廻。私たちは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つのいのちを経めぐって、今人間としての生を得ているのです。この輪廻の世界は、迷いの世界です。仏教では、この迷いの世界を超えて悟りの世界へ入り、二度と迷いの世界に戻らないことを目標としています。仏教は、仏に成る教えであるというのは、まさにそのことであります。そして更に、迷いを超えるための手だてである仏法にあうことができるのは、人間に生れてきたときだけであると示されています。
 今、私たちは人間に生れ、仏法にあうことのできる貴重な時を過ごしているのです。しかし、多くの人々はそれに気づくことなく空しく一生を過ごしてしまいます。
 親鸞聖人は、『教行信証』の総序おいて、生まれ変わり死に変わってきた多くの生を経て、今、仏法に遇えたことを深くよろこんでおられます。そして、ご和讃の中では、
  本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
と、お念仏の教えにあうことができたよろこびを歌っておられます。まさに「むなしくすぐるひとぞなき」なのです。せっかく人間に生れることができたのですから無為に過ごすことがないようにしたいものであります。「けい蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」とは、まさに私たちへの警鐘のたとえ話でもあったのです。
 次の法話テープの交換は10月1日です。