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平成24年10月1日から

国境
 はい、長念寺テレホン法話です。
 尖閣諸島や竹島の問題で、世の中が大変かまびすしくなっています。領土問題は国益が絡む問題ですから、双方が主権を主張しだしたら容易に解決できる問題ではありません。政府には毅然として対応してもらわなければなりませんが、よりよい落としどころをみつけることも外交の手腕の見せ所でありましょう。
 冷静にことの推移を見ていこうとの思いはあるのですが、中国も韓国も国を挙げて国民を巻き込んでの大騒ぎでしたので、ニュースを見ていて不愉快な気持ちになることしばしばでした。
 国内でも、週刊誌などでは非国民とか売国奴などという戦時中に使用された過去の遺物のような言葉が紙面に踊り、未だに冷静でいる日本国民に対して、潜在し鬱屈しているナショナリズムを煽りだそうとしているかのようにも思えます。
 政治的にはまだ厳しい状況ですが、次第に現実的なものも見えてきています。現実には、経済も文化も国境がなくなりつつあります。中国で日本をターゲットにして破壊や不買運動をしても、結果的には多くの中国の人々を苦しめることにしかなりません。文化も、中国や韓国の文化が、私たちの生活の中にも深く浸透しています。政治的なものよりもすでに経済や文化などの生活面では相互依存の状況が進んできています。
 しかし、今、国家間の政治的な思惑の中で、それぞれの国民に歪んだ国民感情が醸成されようとしています。中国でも韓国でも、反日運動が盛り上がれば盛り上がるほど、親日的な発言はできにくくなるのがよく分かります。日本も、同じような傾向はあります。政治家の威勢の良い発言が続くと、自粛という形でそれに答える目に見えぬはたらきが生れます。政治的に作られた愛国の幻想に染まらない人に対してその人格までも全否定する風潮は、改められてしかるべきでしょう。「非国民」や「売国奴」、とても嫌な響きです。
 鎌倉時代、親鸞聖人は、ものの善悪の見方についてとても厳しい立場をとられました。
  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがほは
  おほそらごとのかたちなり
 仏教の教えには、国境はありません。ひとがひととしてどのようにあるべきかを説く中で、国境問題も悲しいかな人間の煩悩の現れとしか読み取れないでしょう。しかし、戦前戦中と、仏教教団は、教義を読み替えてまで戦争協力をしました。その反省に立って、この度のことの推移を見ていかなければならないと思っています。
 次の法話テープの交換は10月16日です。