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平成24年10月15日より

 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人は、「海」ということばを好んでよく使用しておられます。「群生海」というときは私たち衆生のありさまを海に譬えておられます。「本願海」などという場合には、阿弥陀さまのはたらきを海に譬えておられます。
 聖人35歳のとき、承元の法難に遇い、越後に流罪となります。春とはいえ寒風吹きすさぶ北陸の海を眺め、雪雲の下に荒れ狂う日本海の光景に、人間の深い業の姿を重ね合わせたことと思います。親鸞聖人が、「五濁悪時の群生海」「生死の苦海」「無明海」「愛欲の広海」と表現されたところを読みますと、私にも、煩悩が逆巻き翻弄されている私たち衆生の姿がありありとイメージされてきます。
 その反対に、親鸞聖人は、「弥陀の本願海」「本願一乗海」「真実信心海」と阿弥陀さまの大きな功徳を海に譬えておられます。広い静かな海のイメージであり、なにものをも取り込んでいく大きなはたらきを表現しています。多摩川の水も鶴見川の水も利根川や那珂川の水も、海に入れば同じ塩辛さになります。『正信偈』には、「如衆水入海一味」、「あらゆる水が海に入りて一味なるがごとし」とあります。
 これは、曇鸞大師が、海には同一鹹味(ドウイツカンミ)の徳があると説かれていることに基づいています。凡夫であっても聖者であっても、また罪深いひとも仏法を謗ったことのある人も、真実の信心をいただけば、必ず弥陀の浄土に生れることができることを、海の水に譬えているのです。
 現代では、海は人間によって汚され続けています。産業汚水や放射能など海が汚染され、現代人にはこの譬えは通用しなくなっているのかもしれません。悪人ばっかり受け入れてしまえば、浄土も浄土でなく穢土になってしまうのではなどと皮肉を言う人も出てくるでしょう。
 しかし、たとえは一分です。1500年前、中国で曇鸞大師は、黄砂で赤く染まった大河が、海に流れ込み同じきれいな海水になることに感動して、海に同一鹹味の徳があると説かれたことに、私たちは素直にうなづくことができるのです。
 煩悩を抱えたままの私を阿弥陀さまは、そのまま摂め取ってくださいます。親鸞聖人は、穏やかな海を眺めながら、お浄土と海を重ねてイメージされていたのだと思います。
 次の法話テープの交換は11月1日です。