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平成24年11月1日から

道場主
 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人が越後から関東に移住され、凡そ20年にわたり布教活動をされました。親鸞聖人ご自身がお寺を建てたという記録はありませんが、各地に散在するお弟子の中から、念仏集団の指導者が生れ、お寺ができていきます。それはお寺というよりも道場と言うべきかもしれません。
 関東の親鸞聖人24輩の寺院を調べますと、開基に武士が多いことに驚かされます。骨肉の争いに明け暮れる戦乱の時代、現役を退いた武士にとってお念仏のみおしえの中でも、特に悪人正機の教えは、まさに我が身のためのものと感ずるところがあったのではないかと思われます。
 武士は戦場に赴けば、人を傷つけいのちを奪わなければ、我が身を守ることもできません。自身が悪人であるとの思いは強く、後生に対する不安もあったに違いありません。「ひとは縁に触れればいかなる振る舞いもするものであり、そのような悪人こそ阿弥陀さまのお目当てである」との、親鸞聖人のみ教えは、渇いたものが水を求めるように心にしみこんでいったことと思います。
 そのような人々が道場主になっていったのは容易にうなずけるところであります。
 親鸞聖人が京都に戻られてからは、聖人のお手紙や聖人のお勧めになられている書物が、教えを学ぶ手がかりとなる時代になります。親鸞聖人はお手紙の中に、そのお手紙を各地のお同行に読み聞かせるようにと記されています。当時の人々の識字率は、どのぐらいだったのかはわかりませんが、道場主は、ある程度の学識も必要になっていきます。
 浄土真宗の寺院は、まず門徒集団があってそこに道場ができ、寺院に発展していく、いわば庶民の仏教であるといわれてきました。しかし、関東24輩の寺院の開基に武門の出が多いことに、違和感を覚える向きもあろうかと思います。親鸞聖人は、在地権力を利用して教化をすることを否定されています。お手紙のなかにもそのような文言がいくつも出てきます。
 親鸞聖人が関東におられた時代、門徒集団は各地に生れ、道場主も武士に限らずいろいろな立場のひとびとであったでありましょう。むしろ一般庶民が多かったのではないかと思います。しかし、時を経るに従い、聖人のお手紙にも出てくる訴訟問題に対する幕府との対応や、文書による伝道などの必要性から、次第に、門徒集団が地域の文化人であり豪族である道場主のもとに集約されていったということではないかと想像します。
 次の法話テープの交換は、11月16日です。