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平成25年5月1日~

善悪の基準のものさし
 はい、長念寺テレホン法話です。
 『歎異抄』後序に、親鸞聖人の次の言葉が出てきます。
 「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」
 この言葉だけ聞きますと、親鸞聖人はいい加減な人だったんだなと勘違いす
る人もいることと思います。しかし、この後には次の言葉が続きます。
 「そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらば
こそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほ
したらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常
の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき
に、ただ念仏のみぞまことにておはします」
 すなわち、親鸞聖人の善悪の基準は、「如来」すなわち阿弥陀さまなので
す。わたくしたちのような凡夫の知恵に、基準をおいてはいません。如来さま
は、智慧の眼をもって全てを見通し、最善の判断をされます。凡夫の知恵で
は、自分都合の判断しかできません。ましてや、眼前の状況を、正確に見極め
ることは、極めて難しいと言わざるを得ません。その上で、親鸞聖人は、善悪
の基準を阿弥陀さまの段階まであげているのです。とても高いハードルと言う
ことができます。
 親鸞聖人のお手紙を読んでいますと、聖人が、政治とか権力にほとんど期待
していないことがわかります。時によって、理不尽なことをするのが政治であ
り、それよりも、自分たちが如何にあるべきかを考えることの方が大事である
と考えておられたようです。承元の法難で、聖人自身も流罪となりました。聖
人が京都に戻られてからでも、念仏停止の勢いはまだ収まってはいませんでし
た。
 現代は、立憲政治の時代です。政治は憲法という基準の中で行われるという
決まりです。言い方を変えれば、憲法によって政治の横暴から国民が守られる
ということだと思います。憲法第96条の改定が今話題になっています。憲法
改定を議会の3分の2の賛成で可決するという決まりを、2分の1して改定し
やすいようにするということなのだそうです。政治家が判断の基準にしなけれ
ばならないものさしを、政治家の都合によって簡単に変えられるようになれ
ば、政権が代わるたびに憲法が変わるということにもなりかねません。国の根
幹が崩れてしまいます。
 親鸞聖人は、善悪の基準のものさしを、如来という非常に高い理想に定めて
おられます。ただし、政治に対しては、凡夫がする政治と半ば諦めの境地で接
しておられます。憲法も人間が決めたものですから限界があるとは思います
が、理想はできるだけ高く維持すべきではないかと思います。
 次の法話テープの交換は5月16日です。