平成25年5月16日から

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応病予薬の教え
 はい、長念寺テレホン法話です。
 今から二千五百年前のインドでは、思想家たちが哲学的論議を戦わせていま
した。お釈迦さまも当時の思想家たちから論争を挑まれています。しかし、お
釈迦さまは、「世界は常住か無常か。世界は有限か無限か。霊魂と身体は同じ
か異なるのか。死後の生存の有りや無しや。また、あるとしたらそれは何か」
などの問いに全く答えることをされませんでした。
 『小マールンクャ経』にはこのような話が説かれています。
 ブッダが祇園精舎に滞在していたとき、マールンクャ尊者というひとりの修
行者おりました。ある時、マールンクャ尊者は、お釈迦さまが先のような問い
にお答えにならないことに不満を持ち、「もし、答えてくれたなら、私はお釈
迦さまのもとで修行を続ける。もし答えがなかったら修行を放棄して世俗の生
活に帰る」と決意して、お釈迦さまのところへ行き質問をなさったそうです。
 お釈迦さまは次のようにお答えになりました。
 ある人が、毒をぬった矢で射られたとする。家族や友人たちは、彼のいのち
を救うために医者を迎えに行くだろう。しかし、矢にあたった当人が「私を射
た者が、王族かバラモンか庶民か奴隷かわからぬ限り抜き取ってはならない」
また、「私を射た者が、背が高かったか低かったか、肌のいろは黒かったか黄
色だったか、都会の人か田舎の人か、弓は普通の弓か強弓か、弦や矢柄や矢羽
根の材料は何か。それがわからぬ限り、矢を抜き取ってはならぬ」と言ってい
たならば、その人は毒が回って死んでしまうだろう。
 その人にとっては、このような結果を生み出した原因を究明するより矢を抜
いて、適切な治療をすることの方が必要ことなのだ。
 このように、苦の中で迷える人にとっては哲学的難問よりも、当面の苦と迷
いから脱却する実践が必要なのだ。マールンクャよ、私によって説かれないこ
とを説かれないまま受け入れよ。説かれたことを説かれたまま受け入れよ。
 その言葉を聞いたマールンクャ尊者は、歓喜してお釈迦さまの教えを受け入
れたました。
 お釈迦さまは、応病予薬の教えを説かれたと言われます。応病予薬とは、病
に応じて薬を与えることです。お釈迦さまは、今私たちにとって何が必要なの
かを明らかにされます。迷いという不必要な執らわれから解放されることが、
現実の苦しみを取り除く最善の方法であることを示してくださっているので
す。
 親鸞聖人もまさに、その一点に注目し、お念仏の教えを説かれているので
す。
 次の法話テープの交換は6月1日です。