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平成25年6月1日~

有無の邪見を破す
 はい、長念寺テレホン法話です。
 前回、お釈迦さまが、「世界は常住か無常か。世界は有限か無限か。霊魂と
身体は同じか異なるのか。死後の生存の有りや無しや。また、あるとしたらそ
れは何か」などの問いに全く答えることをされなかったとお話しいたしまし
た。
 しかし、仏教教団も時代が下がり、経典が編集されその解説書である論書が
数多く著される様になりますと、インドの人々は哲学的議論を好むためか精緻
な論議が積み重ねられるようになります。
 たとえば、人間は死によって肉体は滅びるが、悟りに至ったり、また六道を
経めぐるその主体は何なのかなどという論議が仏教の立場からなされるので
す。
 お釈迦さまがお亡くなりになられて5~600年後、南インドにナーガルジ
ュナ(龍樹)という大天才が現れます。煩瑣な論議に陥ってしまっている仏教
をすっきりとよみがえらせます。親鸞聖人は、『正信偈』の中で、「ことごと
くよく有無の見を摧破せん」と示しておられます。「有る」とか「無い」とか
にこだわってしまう偏見をことごとく打ち破ったと申されています。
 否定を繰り返していく中で、ものごとを前向きに捉えていく独特な考え方で
す。中観思想と言い、「無自性空」とか「八不中道」とか仏教学をかじったこ
とがある人は必ず学ばなければならない大乗仏教の基本的な思考方法です。日
本仏教はほとんどこの考え方をもとに教義が築かれていると言っても言い過ぎ
ではないでしょう。
 親鸞聖人は、阿弥陀さまは私たちにわかりやすいように示された方便のお姿
であり、その本来のお姿は、「いろもなし、かたちもましまさず、しかれば、
こころもおよばれず、ことばもたえたり」と私たちの想像などでは計り知れな
いような不可思議な大きな存在であると示されています。
 方便のお姿も真実ではありますが、そこだけにイメージをとどまらせてしま
いますと偶像崇拝のようなこだわりが生じます。有無の邪見に陥ってしまいま
す。私たちは、御本尊を通して、真実の「いろもなし、かたちもましまさず、
しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」といわれる阿弥陀さまの
お姿を感じ取っていくことが大切だと言うことであります。
 はぐらかされていると感じるむきもあるかもしれませんが、浄土真宗が世俗
におもねるような現世利益を説くことをしないのは、有無の邪見にとらわれず
仏教の基本をはずしていないからだと言うこともできるのです。
 次の法話テープの交換は6月16日です。