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平成25年8月15日~

終戦記念日

 はい、長念寺テレホン法話です。
 8月は、6日・9日の広島長崎の原爆の日、そして15日の終戦記念日と、平和について考える大切なときとなっています。
 戦死した方の50回忌がすでに一昔前のこととなってしまった今、遺族の方々の心ならずも若いいのちを送らなければならなかった生の声を聞く機会が、年ごとに少なくなっているような気がいたします。
 15日となりますと、必ず国会議員の靖国神社参拝のニュースが流れます。「英霊に対し哀悼の誠を捧げる」と、通り一辺の理由説明をする議員さんたち。隣国を意識してのイデオロギーを背景にもった参拝のようです。戦没者の背後にいる遺族の切なさや空しさは、もはや置いてきぼりになってしまった感があります。
 私の学生時代、「韓国からの通信」という連載がある雑誌に載っていました。韓国国内がまだ不安定な時代、国論を統一するために韓国では反日教育が行われていました。東西冷戦の時代でしたが、日本が再び軍靴にまみれるとしたら相手は西側の一員である韓国ではないかと不安になったこともありました。
 しかし、文化交流が可能になり、数年前には日本国内でも韓流ブームが起こり、食卓にも韓国料理が定番の一つになるようになりました。日本と韓国が手を携えて東アジアの発展に寄与するようになるのも近いことだと喜んでいました。
 ところが政治的変化により一気に関係が冷え込んでしまいました。韓国では、現在、反日教育で育った人たちが中堅になっているのです。対立する国民感情に、私自身も影響を受けています。戦争を直接体験した人は数少なくなっていることが、むしろ双方の溝を深めているような気がします。中国もまた然りです。
 「無明」という仏教用語があります。真実が見えない愚痴の姿が、無明を現出するのです。先の戦争中、日本は鬼畜米英と言い、相手の人格を認めない教育をしていました。差別を美化するのは、迷いの姿以外のなにものでもありません。
 売り言葉に買い言葉では、お互いに振り上げた拳をいつまでも下ろすことができません。私たち仏教者は、お釈迦様がそして親鸞聖人が何故に我が心を厳しく見つめて行かれたのかを考え、行動していくことが大切なことだと思います。
 次の法話テープの交換は9月1日です。