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平成25年9月1日~

震災被災地を訪ねて
 はい、長念寺テレホン法話です。
 東日本大震災被災地のひとつ南三陸へ行ってきました。志津川病院や小学校
はすでに解体されていましたが、防災センターなど何棟かは残されてあり、津
波被害の激しさを物語っていました。2年半が過ぎようとしているのに瓦礫撤
去作業がまだ続いており、復興の道、まだ半ばという現実を目の当たりにして
きました。
 津波被害の甚大さを再認識している中で、福島第1原発でまた放射能漏れが
あり海が再び汚染され始めているというニュースがありました。汚染水が格納
タンクから漏れだしたとのこと。この度の原発事故で、かろうじて安全を担保
する施設だったはずなのに、そこから汚染水が漏れ出してしまい収拾すること
が難しい状況だとのことです。
 安全できれいな発電施設と宣伝してきたのですから、東電職員がいくら頭を
下げて誤ったとしても納得できません。一度暴走し出したら制御できないもの
を安全としてきたところに、やはり人間の傲慢さがあったのではないかと思い
ます。
 海は、全てのものを飲み込みきれいにするという譬えがあります。海は、ど
のように汚れた川の水が流れ込んだとしても、一つの塩味にしてしまう。あら
ゆる川の水を飲み込んでも全て浄化してしまうという譬えです。また、海は、
死骸を残さないという譬えもあります。海の水は、死骸をすべて浄化してしま
い、常に清らかであるという譬えです。
 親鸞聖人も、その譬えを好んで用いられ、「海」をお浄土に譬えて凡夫が救
われる道を説いておられます。
 しかし、その反面、親鸞聖人は、海を「群生海」とか「難度海」などと、荒
れ狂う煩悩の海に譬えられています。
 親鸞聖人は、「海」という巨大でありそして人知を超えた量り知れない力を
持つ存在に、憧れと恐れを抱き、その思いを素直に教えの中に表現されていま
す。
 福島の原発事故は、その海をどこまで汚してしまうのでしょうか。人間が作
り出してしまった放射能という汚染物質を即時に浄化する技術が開発されない
限り、原子力利用という技術は、まだ不完全であり、とても安全といえる状況
ではないということなのではないでしょうか。
 子育ての頃、おむつの装着が不完全で駄々漏れになった排泄物にうろたえた
ことを思い出します。人間の煩悩は、まさに駄々漏れ状態です。そのことにな
かなか気づくことができない姿を、仏教では「愚痴」といいます。原発事故
は、私たちが、まさに迷いの中にいるということを証明しているようにも思え
ます。
 次の法話テープ交換は9月16日です。