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平成25年11月1日

親鸞聖人の足跡

 はい、長念寺テレホン法話です。
 親鸞聖人のご生涯をたどりますと、承元の法難までは京都。そして、流罪の地越後。そしてほぼ20年間、北関東でご教化をされたこと。60歳代の前半に京都に戻られ、京都でご往生されています。
 しかし、その他にも、親鸞聖人の足跡を伝える伝承をもった地域があります。神奈川県はその一つです。『口伝鈔』には鎌倉での一切経の校合での逸話が紹介されています。鎌倉で行われた一切経校合に親鸞聖人が招聘されたことが事実だとしますと、イメージが一気に膨らみます。先日、神奈川組仏教壮年会で大磯の善福寺さんに参拝しました。開基である了源上人は、親鸞聖人のお手紙にも名前が出てくる「ひらつかの入道」であると言われています。校合の間、聖人は北関東から鎌倉に通われたのでしょうか。相模の国で長期にわたり逗留されていたことも、想像に難くはありません。鎌倉の永勝寺、国府津の真楽寺御勧堂など関連するお寺の名が次々と浮かんできます。
 京都時代、法然門下で兄弟子であった隆寛律師が、嘉禄の法難で陸奥へ流罪となりその途中、相模国飯山に留まり亡くなられています。聖人は隆寛律師を尊敬されておられました。聖人は、律師が相模の国に滞在していることを知り得たなら、必ずお訪ねになられたでありましょう。
 また、『御伝鈔』に出てくる箱根権現も神奈川県です。
 残念ながら戦国時代、後北條によって鎌倉の真宗寺院は排除され、周辺の真宗寺院も大きな影響を受けています。消されてしまった歴史を復活するのは難しいことです。しかし、親鸞聖人のご生涯において相模の国はもっと注目されて良い地域なのではないかと思われます。
 また、三河の国も親鸞聖人の足跡を伝える伝承をもった地域です。最近、再び三河を訪問する機会がありました。前回は、三河の一向一揆に注目したのですが、今回は、三河のお寺の開基に北関東に由来する人々が多いことに興味を持ちました。
 北関東と鎌倉や三河は、どのようなルートで交流していたのでしょうか。鎌倉時代の関東平野は、利根川をはじめとする大河川や湿地により常に不安定な土地柄で横断することは困難でした。したがって海沿いをたどるルートか、甲斐の国や秩父を抜ける山岳ルートを通らなければなりませんでした。
 山梨県では、勝沼にも都留にも親鸞伝説があります。伝説を丹念に拾っていけば、ますますイメージが広がっていくことになるような気がします。
 次の法話テープの交換は11月16日です。