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平成25年11月15日

白骨の御文章
 はい、長念寺テレホン法話です。
 蓮如上人の『白骨の御文章』の一節に、「いまにいたりてたれか百年の形体
をたもつべきや」という言葉があります。
 仏教婦人会の役員として長い間お世話になった方の葬儀ありました。101歳
というご高齢でした。晩年は、お寺に来ることはできなくなってしまわれまし
たが、前住職の時からですから本当に長い間お世話になりました。副住職が読
み上げる白骨の御文章を聞きながら、まさに百年以上の人生を全うされたのだ
なとの感慨をもちました。
 私が、蓮如上人が「たれか百年の形体をたもつべきや」と問われてますが、
故人は百年を生きられたのですよねとお話ししましたら、みな大きくうなずい
てくださいました。
 ただし、蓮如上人が「たれか百年の形体をたもつべきや」と問いの形で私た
ちに示してくださったその答えは、「だれもいません」と言うことではありま
せん。むしろ、「とても稀なことであります」と答えるべきでありましょう。
なぜならば、「いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや」の直前の文
章は、「さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎや
すし」とあるからであります。永遠に生きることのできる身体を持つ人などひ
とりもいなのだと言うことを、わかりやすく問いの形で示してくださっている
のです。
 『白骨の御文章』には、とても厳しい内容が書かれています。美しい文章で
はありますが、人のいのちの現実を冷徹に示されていると言っても過言ではあ
りません。浄土真宗では、この御文を葬儀のときに読み上げる習わしとなって
います。それは、私たち残されたものに対して、いのちのはかなさを、しっか
り我がこととして認識しなければいけないことを知らしめています。そして亡
き人をご縁として、しっかりと仏法に合わせていただかなければならないと導
いてくださっています。
 『白骨の御文章』は、流れるような美しい文章であるがゆえに、その内容に
関わりなく、無常観に流されて「はかなさ」に浸ってしまうという傾向が無き
にしも非ずであります。しかし、「白骨」ということばなどの響きだけで、死
者をはかなくかわいそうなものと捉えてしまったならば、蓮如上人の意図から
は遠く隔たってしまいます。
 むしろ、仏さまが私の身を案じて、「しっかりと自分の足元を見定めて人生
を歩めよ」と導いてくださっていると味わえることが、仏法に生きるというこ
とだということを、早く気づいてほしいと呼びかけてくださっているのです。
 次の法話テープの交換は12月1日です。