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七地沈空の難
 はい、長念寺テレホン法話です。
 初めて浄土真宗の教えを聞く人が、一様に驚くことがあります。
 「阿弥陀様の本願力によって救われていく私たち浄土真宗の門徒は、他力本
願を信ずる立場から、占いまじないや日の善し悪しを選んだり方角を気にする
など因果の道理にあわない迷信俗信とは関わりません。したがって、浄土真宗
のお寺では、お守りも御札もありません。御神籤も売っていません」
とお話しますと、意外な顔をされます。宗教のイメージとして、神仏に対し敬
虔にお祈りし、ご利益をお願いするものだとの固定概念があるからだと思いま
す。ましてや、仏教の専門用語である「他力」という言葉を勝手に解釈して、
神仏にすがり、あてにするのが他力だと誤解している人がほとんどですから、
余計意外に思われてしまうのです。
 しかし、仏教は、そのようなイメージからはかなり異なった教えです。仏教
の入り口は、まず自分自身を問うことから始まります。私たち人間は、仏道を
歩む上で一筋縄ではどうにもならない大きな障害を持っています。それを煩悩
と言い、迷いともいいます。仏道を歩むということは、私自身の心と格闘する
ということです。仏道にはいろいろな形態があります。座禅に代表される瞑想
によるもの。千日回峰行のように肉体を酷使し精神の統一を図るもの。常行三
昧というお堂に籠もって読経や念仏をするものなどもあります。浄土真宗では
仏法聴聞や普段のお念仏も、仏道を歩む姿であります。
 仏道を歩むためには、お手本が必要となります。それが本堂の御本尊である
のです。仏さまは、礼拝の対象であると同時に、目標でもあるのです。宗派に
よって御本尊が異なるのは、どの仏さまを理想とするのかの違いによるので
す。
 『瓔珞経』というお経に、凡夫が仏になるまでの菩薩行に52の段階がある
ことが説かれています。その41番目の階位が歓喜地といい、ここまでのぼる
と凡夫に後戻りすることはないといわれています。しかし、その後47番目の
遠行地に大きな関門が待っています。それは「七地沈空の難」といい、この先
に進むにはおのれの力ではどうにもならないといわれています。なぜならば、
遠行地に至りますと自分の今の境地にすっかり満足してしまい、そこに留まっ
てしまう。仏さまの誘いがなければ永久にこの地に留まることになってしまう
のです。
 このお経は、私たちの持つ煩悩が如何にしぶといものであるかを物語ってい
ると同時に、仏さまの力(すなわち他力)がないと私たちにはどうにもならな
いのであることを象徴的に示しています。
 仏教における他力の教えは、私にとってなくてはならないと納得したところ
に明らかになるのです。腑に落ちるとはまさにそういうことではないでしょう
か。
 次の法話テープの交換は、2月16日です。