沿革

〔開 基〕

長念寺は、1522年(大永2年)法専坊によって当地に草庵が築かれたことに始まります。
当初は、真言宗の寺院であったようですが、後に真宗門徒であり徳川家に仕えていた中
根家が帰依していることから、草案創設後あまり時代を開けずに真宗寺院としての基盤
が確立されていたことが考えられます。
山号は、開基の年に因んで「大永山」と名付けられましたが、長念寺の東側に多摩川の
支流の名残である三日月湖があったことから「永池山(えいちざん)」と改称されました。
1592年(文禄元年)には地頭河野庄左衛門盛利から、本尊のための茶湯免として、屋
敷500坪の永代寄進を受けて現在の寺院としての基礎を確立しました。
1613年(慶長18年年)には、真宗大谷派本山東本願寺より、木造御本尊の御免をいた
だき東本願寺の末に入りました。これは、徳川家に仕えていた中根家の影響があったと考
えられます。
その後百年ほどの間に中根家との関係が希薄になったからか、長念寺は1701年に浄土
真宗本願寺派に帰参し、本願寺の直末となり、明治維新や関東大震災、戦前戦後のを混
乱を経て現在に至ります。
現在の住職である泰善は、法専坊から数えて17代目にあたり、副住職である教善は18代
目となります。

〔宗派への帰属と門徒組織〕

上記の通り、いつの頃から浄土真宗に帰属したかはさだかではありませんが、真宗門徒
である中根家が、長念寺に帰依していること、また1613年(慶長18年)に、東本願寺より木
像御本尊の御免をいただき、正式に東本願寺の末に入っていることから1600年頃にはす
でに真宗寺院であったと考えられます。
本願寺が東西に分かれたのは1603年(慶長8年)でした。詳しくは、ここでは触れません
が当時の東本願寺は徳川家と非常に親密な関係を築いていたことは歴史的にも裏付けら
れています。これらのことから、徳川家に仕える中根家の影響で、当時の長念寺が東本願
寺に帰属したことは想像に難くありません。
中根家の中でも特に厚い信仰をささげてくれたのが、徳川家光に仕えて活躍した中根
壱岐守平十郎正朝の母堂、秀月禅尼でした。その秀月禅尼の一周忌にあたる1649年
(慶安2年)には、中根壱岐守より本堂大門惣門無常門と庫裏が寄進され、東本願寺より、
秀月禅尼のお姿を描いた掛け軸が下符されました。
しかし、長念寺は1701年(元禄14年)に西本願寺に帰参し本願寺の直末となり現在に
至っています。これは、上記の通り中根家との関係が希薄になってきたことが影響してい
ると考えられます。この際、中根家が激怒して、長念寺に寄進した宝物等を引き上げてし
まったという記録が残っています。
ただ、長念寺にとって中根家との関係断絶はさほど大きな問題ではなかったようで、そ
の後も、熱心な布教活動が続けられていました。本願寺派への帰参から2年後の1703年
(元禄16年)には、鐘楼が建立され、梵鐘鋳立の奉賀帳には2230名余りの名が記載され
ています。その記録によると,門徒組織が、現在の川崎市多摩区、麻生区、宮前区、高
津区、横浜市緑区、東京都稲城市、狛江市、調布市に散在しており、現在の状況とほと
んど変化はなく、浄土真宗の開法の道場として広域にわたり活発な布教活動が行われて
いたことがわかります。
そのような中で、江戸後期、文化年間になると、本堂などの建物の損傷が表面化してき
ました。しかし、これらのほとんどは中根家からの寄進で建ったものであり、中根家に無断
で再建することは憚られました。そこで、町人近江屋小右衛門の仲介により関係が復活し
たとされています。現在の長念寺の伽藍の基礎となっているのは、この時の改修により再
建されたものです。
ともあれ、本願寺派への帰参から長念寺は有力旗本の庇護から離れ、門信徒の総力
により護持される寺となりました。以降、変わらず門信徒とともに長念寺は成長を続けてい
ます。

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